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2016-05-05 (Thu)
上野国沼田城の史跡探訪を取り上げたこのシリーズ記事もいよいよ大詰め。

今回は、天守閣造営など、この城郭を整備した真田沼田藩の初代藩主、真田信之(信幸)とは直接関係のない史跡を取り上げます。

前々回の記事で、沼田公園のメインな園地(本丸跡)の西端から、一段低い平坦地(下公園)へとご案内し、三峰山や谷川岳のパノラマが広がる崖の上でしばし雑談を繰り広げましたが、この下公園は古地図で「古城」あるいは「捨郭」となっている場所で、真田信之が藩主となる前の城郭がここにあったと言われています(参考サイト1)。

この古城跡の西端(やはり、切り立った崖の上になっています)近くに歩を進めると、下の写真のように木柵に囲まれた大石が目にはいります。

沼田城再探訪-35
 (写真はクリックで拡大します)

知る人ぞ知る、平八石です。

沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代城主である顕泰の側室の子である沼田平八郎景義が謀殺され、それを仕組んだ真田昌幸が実検したあとその首を置いた石といわれるものです。

※私が小学生の頃それを見て、その石に苔がむしているのはその血を肥しにしているのかなどと思ったものです。

義経を思わせる風雲児、平八郎は闘えば昌幸をもたじろがせるだけの力を持ちながら、伯父の金子美濃守にだまされ、殺害されたということで、いつしか沼田町民の判官贔屓をかっさらう伝説的な存在になったようです。

詳しくは現地の案内板の説明文(下の写真)をご覧ください。

沼田城再探訪-36

平八石のすぐ近くに、同じような風合いの石で作られた句碑があるのですが、それについては後日、別シリーズの中で取り上げたいと思います。

さて、この捨郭の西端からは利根川を挟んだ対岸にどっしりと構えている子持山を主景としたパノラマを楽しむことができます(下の写真)。

沼田城再探訪-37

利根川は、片品川、薄根川とともに沼田河岸段丘を削り上げた三大河川の一つです。
赤城・子持の両火山の溶岩がこの川をせき止めてできたのが古沼田湖で、その天然のダム堤が侵食や崩壊で下がるたびに段丘が削られて日本有数の段丘地形が出来上がったと考えられます(以前の記事参照)。

捨郭のあった台地面を時計回り方向に移動すると、赤城山、子持山に続いて沼田盆地を縁取りする、唐沢山、大峰山、吾妻耶山がそれぞれ個性的な山容を見せます。

そして、前々回の記事で写真とともに紹介した、谷川岳、三峰山、迦葉山が続きます。

更に東回りに眼を転じると、前方に高王山と戸神山、その背後に聳える標高2158mの武尊山と対面することになります(下の写真)。

沼田城再探訪-38

戸神山(上の写真、手前右)を、その形から、私たちは「三角山」と呼んでいました。

武尊山(上の写真の後方)は前方の山に半分隠れつつも、奥ゆかしくよこたわる、雪化粧の似合う山で、私も子供のころ憧れていました。

沼田平八郎や真田信幸も城からこの山を望み、武運を祈ったのかもしれません。

撮影当日は霞がかかっていて、はっきり写らなかったのが残念でした。
部分拡大し、無理やり画像処理した武尊山が下の写真です。

沼田城再探訪-39

武尊山の山頂はどれだと思いますか?

この山は、標高2000~2160mの、ほぼ同じ高さのピークが6個も連なっていて、山頂の特定は容易ではありません。

最遠景の山の右半分は残雪が少なく、薄い紺色に見えます。この部分を仰向けに寝ている人の顔に例えると、一番右のオデコの部分は「天狗岩」、鼻の先は「前武尊」、唇は「剣ケ峰」、襟(第一ボタン)の部分が無名ピーク(2103m)、第二ボタンの位置のトンガリが副ピーク、第三ボタンの位置のトンガリが主ピーク(2158m)となります。

更に左隣のピークに行くと、薄根川支流の桜川源流部(川場スキー場となっている)や発知川支流の鹿俣沢の源流部を囲う尾根筋へとつながります。

上の写真で戸神山(俗称、三角山)の背後にある紺色の濃い尾根で、スキーリフト沿いに露出した白い雪の筋が登りつめた頂点のうち左のほうの、その背景にかすかに白いピークを見せているのが武尊山頂になります。

しかし、ちょっとこの写真でそれを見つけ出すのは至難の業のようです。
ネット検索すれば、くっきりと写ったこの山の写真は他にいくらでもありますので、そちらで確かめられるとよろしいかと思います。

さて、武尊山の山名は、日本武尊の東征に由来しているとされ、その石像が1850年に前方のピークである、前武尊に建立されたといわれています。

谷川岳も武尊山も一度登ってみたいと思っていましたが、高校卒業以来地元を離れていたため果たせていません。
武尊山よりも70m高い至仏山には、高校生の時に登っていますので、まあよしとしましょう。

捨郭跡(古城跡、俗称下公園)から元の坂を戻って本丸跡のメイン園地に向かうと、坂の途中、左手に、周囲を圧するような石碑があります(下の写真)。

沼田城再探訪-33

五大尊講
土岐沼田藩の初代藩主、土岐頼稔が城内に不動院という寺を建てたが、維新変革により廃寺となったことから、沼田五大尊講として祀られた等々のいきさつが、台座に刻まれていました(下の写真)。

沼田城再探訪-34

私のこの沼田城址再探訪の際、同行した、私よりも年長の沼田出身者がこの石碑を見て「こんなのここにあった?」とつぶやきました。
そういえば私も記憶がないような。
そこでこの石碑の横に建てられた追加の小さな石碑を見ると、以下のようなことが書いてありました。
「馬喰町の二十三夜勢至同境内に昭和二八年に建立されたものをにここ沼田公園内に移設する。昭和四一年」

昭和四一年といえば、私が高校を卒業した年ですから、見た記憶がないのも当然です。
でも、実家に帰省した際に甥や姪を連れてこの公園で遊ばせたときに、前を通りかかったことはあったはずです。

というわけで、この石碑は、沼田城址の中ではかなり地味な存在の史跡でした。

土岐頼稔と不動尊のかかわり、頼稔の沼田における施政が発掘され、沼田市民や歴史好きの人々になじまれるようになれば、この石碑も輝いてくるかもしれません。

これで沼田公園内での私の真田氏ゆかりの歴史散歩はひととおり終わりとなりました。

次回以降は、公園から離れた場所での沼田真田巡りが続きます。

 *  *  *  *  *  

参考サイト:

(1)武蔵の五遁、あっちへこっちへ:「沼田城(3) ~ 豊臣秀吉の裁定」
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1941.html


 *  *  *  *  *  


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2016-05-04 (Wed)
上野国沼田城の史跡探訪を取り上げたこのシリーズ記事で、前回までに、立派な石垣の西櫓台付近や石垣のかけらもない天守閣跡をたどってきました。

今回は、もう一カ所、真田時代の沼田城のしっかりした石垣が残された場所、本丸南東隅付近の遺構を訪ねます。

早速その場所の写真をご覧に入れましょう。
下の写真、中央から左の石垣がそれです。

沼田城再探訪-32
 (写真はクリックで拡大します)

西櫓台付近の石垣同様、表面が平坦化された巨大な石もいくつか見られ、石垣の高さも大人の背丈を優に超えます。
公園整備の関係で左のほうの石垣の上端部にコンクリート擁壁が継ぎ足されているのがちょっと艶消しですが、「この石垣から向こうが本丸だったのだな」との感慨を抱かせるに十分な拡がりがあります。

石垣の下側もコンクリートで護岸されていますが、この水面は堀が水を湛えているというよりも、方形の浅い人工池になっていて、私が小中学生の頃は、2,3羽のガチョウが放し飼いされていました。

石垣と向かい合わせに、小高い場所があり、そこには2,3の石碑などがありますが、沼田城絵図と照らし合わせると、そこにがあったことがわかります。

下の図は、沼田公園 真田時代沼田城図(重図)(外部リンク)を参考に、地理院地図の該当部分の上に沼田城の堀および櫓、天守閣の位置を重ねて私が描いたものです。

沼田城再探訪-31

この図で、濃い色で示した堀はその窪みが現在も残されているところを示します(筆者オリジナル)。
上の写真の石垣および人工池は、上の図では沼田公園の園の字のすぐ下の櫓とその右の堀に該当します。

ついでですが、前回記事で取り上げた天守閣およびそれに接する堀の位置も上の図でよくわかると思います。

※そうそう、この石垣と人工池と園路を挟んだ北側には円形の噴水池があり、昭和30年代前半には大勢の小学生や幼児がここで水浴びをしていました。すぐ横には消毒用の桝形の小プールがあり、私も利用した記憶があります。しかし、ある事件を境に遊泳禁止となり、中央に噴水が置かれ、ただの池に転用されました。事件というのは、沼田および周辺地域での赤痢の集団感染の発生です。そのとき、このプールも感染源の一つとして強く疑われたためのようです。プールのすぐ横にトイレはあったのですが、一部の心無い利用者がトイレを使わないで済ませているらしいという噂もささやかれていましたが、真相はどうなのでしょう。

このプールの北には沼田市の武道場が私の幼少時からあり、その後、そのすぐ北に沼田小学校講堂が、すぐ南に旧生方家住宅旧土岐邸洋館(いずれも外部リンク)が移築され、一大文化ゾーンになっています。

この生方家は私とたまたま同姓ですが、沼田の城下町で江戸時代初期から商家を営んできた家系で、元沼田町長の生方誠の生家だったものです。

土岐氏は、真田氏改易のあと、代官がしばらく治め、本多氏、黒田氏、と引き継がれた沼田藩に入封した大名で、版籍奉還まで120年余りこの地を治めたということです。

これら文化ゾーンの古建築は、いずれも沼田城にゆかりのある建物には違いありません。

さて、本丸のこの石垣の話にもどしましょう。

下の写真(とくに石垣の右半分)をご覧ください。

沼田城再探訪-27

最初の写真の石垣の一番右奥に写っていた、少し色の違う石の並びの部分を、別角度から写したものです。

「えーっ?、これって、新しく積んだ石垣じゃない?」とつっこみたくなるほど、見るからに石が新しく、また白っぽいではありませんか。
石垣の角度も微妙にゆるいですし。

しかし画面左の、以前からあった黒くて苔むした石垣の個々の石と、大きさや表面の形(カットするというよりも無造作に割ったときの表面)は共通しています。

すなわち、この新しく見える石垣は、真田氏改易に伴い城郭を破却した際に埋め立てられて以来、330年余り土の中で眠っていたものということになります。

私が小学生の時から見ていた、黒くて苔むした石垣(写真の左半分)はこの330年間の風雪による風化と苔の植生遷移がどれほどのものであるかを如実に物語っているといえます。

以下の写真は、この石垣跡の近くに建てられた案内板の解説文を撮影したものです。

各写真をクリックして解説をとくとご覧ください。

沼田城再探訪-28

ちなみに、上の写真の軒丸瓦は、前々回記事の中で紹介した私が小学生当時に御殿桜の石垣の下の笹藪の中から拾ったもの(下記に該当部分を引用)とそっくりです。

 「笹藪の中には屋根瓦の破片が落ちていることがあり、中でも円形で中央に三つ巴の模様のある破片を見つけたときは、宝物を見つけたような達成感を感じました。家に持ち帰り、親兄弟に見せたりしたあと、大切に保管した記憶があります。その後、同じような破片が当時の市公民館の廊下の展示ケースにもあったので、それが予想通り、沼田城のものだったことが確認できました。」

沼田城再探訪-29

この本丸堀発掘場所が沼田城絵図でどこにあたるかを示した部分を拡大したものが下の写真です。

沼田城再探訪-30

以上、途中で何度か話題が脱線しましたが、沼田城址のほぼ全貌を、私の体験を交えながら紹介したことになります。

まだいくつか紹介漏れの史跡がありますので、次回それらを取り上げたいと思います。

最後にこれまでの記事作成、とりわけ、城郭の平面図に関して、以下の記事を参考にさせていただいたことを明記しておきます。

     *  *  *  *  *  *  *

kubo_kenji:「沼田公園 真田時代沼田城図(重図) 」
http://photozou.jp/photo/show/1365719/69634474

武蔵の五遁、あっちへこっちへ:「沼田城(2) ~ 滝川儀太夫の男気」
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1940.html

酔いどれ親父のDataFiles:「日本の城 古城絵図・関東(1)」
http://book.geocities.jp/yabayousuke/kojyouezu/03203/sub03203.html

余湖くんのホームページ:「沼田城(群馬県沼田市倉内)」
http://www65.tok2.com/home2/yogokun/numata.htm

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2016-05-03 (Tue)
一連のシリーズ記事、今回はいよいよ、真田信幸(信之)が築いた天守閣の跡に迫ります。

最初に、前々回の記事から、「上野国沼田城絵図」の主要部分を再掲しておきます(下の写真)。
※写真はいずれもクリックで拡大します。

沼田城再探訪-5

この絵図では、西が上、北が右になっています。

前回記事では、この沼田城址公園で随一の石垣が残る西櫓台一帯の史跡を紹介しました。

その場所(本丸の西端)から北へ眼を転じると、公園内で一段低い平坦地へと続くゆるい下り坂とその先の風景が飛び込んできます(下の写真)。

沼田城再探訪-18
 (どの写真も、クリックで拡大します)

この坂を下ったところが、捨て郭(古城)の跡地で、私が小学生の頃はこの一段低い園地を「下公園」と呼びならわしていました。

下公園で更に北向きに歩を進めると、河岸段丘沼田台地の北端の崖の上に行き着きます。
かなり急な崖で、鉄柵がないと転落の危険大ありです。

その崖は遮る樹木がないため、沼田台地から見た古沼田湖の対岸、更にはその後方にそびえる三国山地の山々のパノラマを望むことができます(下の写真)。

沼田城再探訪-19

※このパノラマを背景に、映画「網走番外地」ロケが行われていて、私も遠巻きの野次馬にまじって固唾をのんで見守った記憶があります。反射板に照らされ、浅丘ルリ子の姿は一層まばゆく感じられました。このキャスティングから、高倉健主演の東映作品ではなく、その前の日活作品(外部リンク)だったことがわかりました。

「ぜんぜん天守閣、出てこないじゃん」ですって?
すいません、もう少々お付き合いを。

上の写真で中央に左右対称にどっしり構えるのが三峰山、その左に残雪の残る谷川岳、右に迦葉山が控えています。
谷川岳は霞んでいてよく写っていませんので、トリミングして無理やり画像処理したものが下の写真です。

沼田城再探訪-20

谷川岳は猫が腹ばいで休んでいる姿に例えられ、尖った耳の形のピークは手前がトマノ耳、その奥がオキノ耳と呼ばれています。
オキノ耳1977mが最高地点で、標高は2000mに届かないのですが、岩登りする場合の岸壁はアイガー北壁を連想するほどに登山者を寄せ付けず、そのため、遭難が頻発し、「魔の山谷川岳」と呼ばれていました。
ある時はザイルで宙釣りになったまま救助もままならず、そのザイルを自衛隊の射撃で切断し、二人の遺体を収容したというショッキングな出来事(外部リンク)もありました。
記憶のまま書き綴りましたが、Wikipediaにその要点が記されています(こちら)(外部リンク)。

パノラマの一部を示した上の写真で、三峰山の手前には、沼田河岸段丘を削った3大河川の一つ、薄根川沿いの水田地帯(減反政策後の今では畑や、勤労青少年ホーム、ゴミ処理場用地に転用されていますが)が拡がっています。
前景の針葉樹のシルエット越しに、その薄根川が見え隠れしています。

※私が小学生の頃は、学校にプールがなく、水泳授業では先生の引率で、この崖の横にある小道を通って薄根川の天然プール(淵状に若干深くなっていて、「茶碗淵」と呼ばれていました)に通ったものです。もちろん、夏休みには子供グループだけで、あるいは親兄弟といっしょに水浴び(水泳というよりもこちらのほうが語感近い)に行ったものです。

「天空の城下町(沼田)」シリーズの4回目記事で、すでにこのことに触れていました。
 「沼田台地上の市街地から、沼田公園(城址公園)の空堀の底の小道を降りて薄根川(少し川幅が広く、適度に深みもある、茶碗淵とよばれていた場所)に泳ぎにいくことが多かったのですが、水泳教室など、人数が多く中級者もまざる場合は長い下り坂を下って、戸鹿野のこの橋げたのある岩に出かけたものです。」

※残雪が北斜面に残るある日、近所の遊び仲間とこの崖の上で遊んでいると、若いカップル(当時はアベックという言葉が使われていた)が崖下への山道を下りていくのが見えました。ガキの分際で何か冷やかすような言葉を誰かが発したのでしょう、しばらくすると男性が振り向きその山道を駆け上がってきます。クモの子を散らすように退散したことを覚えています。

前置きが長すぎました。

いよいよ天守閣跡に北西方向から接近します。

下の写真で右中段に東屋が写っていますが、その向こうはくぼ地になっていて、くぼ地の対面はうず高い丘になっています。
この丘が天守閣跡です。

沼田城再探訪-21

上の写真で、左半分をよく見ると、猫の額のような底面を持つ窪地になっていて、その左右も向こう側も斜面になってこの窪地に落ち込んでいるのが分かります。

もちろん、右斜面は天守閣の土塁そのもので、城郭の破却が行われる以前は石垣がつまれていたはずです。

そうです、この窪地は本丸の堀の跡です(冒頭の沼田城絵図で天守閣北面でクランクしている部分の堀)。

この堀は上の写真の左端、外灯と桜の大木のある所のすぐ後で左に曲がり、沢となって台地の下へと続いています(絵図も参照)。
茶碗淵に下りていく小道はこの沢づたいにありました。

※この天守閣跡の北斜面は、私の小学生の頃の木登りや忍者ごっこ、ソリ遊びの格好の舞台でした。
忍者ごっこというのは、呪文を唱えてから斜面の小道を尻で滑る術を含んでいました。
この尻すべりの時に乾いた小道の砂埃が舞い上がり、一瞬忍者の姿が消えるのでした。

※また、向かい合う斜面にはビッシリと笹が生い茂り、その中に迷路を作ってよく遊んだものです。
ときには、エナメル線を張り巡らせて何か秘密基地が作られていた形跡もありました。

※毎日のように泥だらけ、砂だらけ、擦り傷を作って家に帰りましたが、家事担当の祖母は愚痴をこぼすこともなく汚れた服の選択をしてくれました。
手回しローラーの絞りきがついた電気洗濯機がはいったのは、そのような遊びをしなくなってからだったように思います。

「えーと、天守閣の話は?」
「はい、その当時はそこが天守閣跡だなんて知りませんでした。」

※天守閣跡の北西には私の小学生の頃、小さい池がありました。
ヤゴやオタマジャクシを捕まえて遊んだものです。
一度は、水辺の土の中に泡のようなものが埋もれているのを見たことがあります。
どうやらそれはシュレーゲルアオガエルの卵を包んでいたもののようです。

この池のあった場所は、今でも配管からの小滝とそれを引き立てる小さな岩が組まれていて、湿った場所になっていますが、残念ながら、これは公園としての整備であって、天守閣らしさを演出したものには見えませんでした。

この小滝を左に見ながら東屋との間のゆるい坂を上ると、鳥居と、そこから石段を数段登ったところに作られた社が見えてきます。
これは英霊殿で、太平洋戦争の戦死者を弔うためのものです。

※私の父母世代やその肉親たちが赤紙一枚で戦場に送りこまれた太平洋戦争を半ば肯定する施設としての英霊殿は、戦国武将が威光を顕すために築いた天守閣の跡地にはそぐわないというのが正直なところです。
とはいえ、世界大戦も戦国時代の戦も一兵卒から先に犠牲になるという点では共通しています。
今度の参議院選挙にからめて改憲が取りざたされていますが、戦後70年余、平和憲法のもとで戦争のない世界を目指してきたことで、一人の英霊も追加することなくここまで来られたことを忘れてはいけないでしょう。

それはさておき、このゆるい坂を上りつめて本丸の平面に立つと、天守閣跡が全貌を現します。
この南面から見た天守閣の様子が下の写真です。

沼田城再探訪-22

大きく写っている案内板が、この小さな丘が本丸跡であることを説明していなければ、通り過ぎてしまいそうな、存在感のない遺構です。

沼田真田氏5代藩主信澄の悪政により閉門改易され、この城の破却がなされたときに、江戸城と並び五層を誇った天守閣は目の敵にされ、徹底的に崩され、跡かたも残らないようにされたのではないでしょうか。

この無念さをいくばくかでも晴らしてくれそうなのが、最近この天守閣跡のすぐ南に建造された、真田信之(信幸)とその妻、小松姫が寄り添う石像です。
4月29日の記事からその写真を再掲します。

沼田城再探訪2
真田信之と小松姫の石像。沼田公園。筆者撮影。

4月29日の記事で:
 「石像の台座の上に所狭しと、5円や10円の硬貨が6枚ずつ密集して並べてあるのを発見しました。
この写真も拡大するとそれが見えます。
どうやら、六文銭にあやかった見学者・観光客の願掛けのようです。
ローマのトレビの泉の真田版といったところでしょうか。」

と書きましたが、せっかくですので、台座全体とその上の六枚銭の願掛けの写真を下に掲げます。
別角度からの写真をクロップしたものです。

沼田城再探訪-26

いつになく、長文になってしまいました。

次回記事では、本丸にまつわる遺構を取り上げ、沼田城址再探訪のツアー記を締めくくる予定です。

お楽しみに。


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2016-05-01 (Sun)
NHKテレビの大河ドラマ「真田丸」、今日のシーンは家康が上洛、いよいよ真田昌幸も決断を迫られるところ。

それはともかく、真田信幸(信之)が天守閣造営を含む城郭整備を行った沼田城は、末代の悪政で取り壊され、堀跡や石垣がわずかに残されるだけとなり今日に至っています。

この沼田城址公園を遊びのグランドとして育った私の城址の再探訪、今回はいよいよ石垣の登場です。

前回の記事で本丸の西端に植えられ、現在も四百余年の年輪を刻んでいる御殿桜を紹介しましたが、その桜の根本こそ、沼田城の石垣が最も立派な形で残されている場所なのです。

下の写真がその石垣ですが、何か大した石垣には見えませんね。
それもそのはず、その立派な石垣になっているところへと下りていく小道だからです。

沼田城再探訪-12
 (写真は、クリックで拡大します)

この小道をおりて曲がり角に立つと下の写真のように、立派な石垣が目に入ります。

沼田城再探訪-13

ここまでくると、石垣全体が大人の背丈よりもずっと高くなっていて、ここに確かに城があったのだと実感します。
とりわけ、このコーナーをしっかりと守る2段の巨石は一見の価値があります。

この石垣の石は、自然のままの形ではなく、それぞれ直方体、あるいは五角柱、六角柱の形にカットされたものが、隙間なく、また安定に積み重ねられています。
真田家直系の信幸が城郭にかける気概がうかがわれます。

石の表面をご覧ください。
一番下の石の下半分くらいは土で汚れたようになっていますが、これは周りの土を最近掘り下げて現れた部分でしょう。
それより上は、石の表面が築城以来四百数十年の風雪にさらされて白く風化した様子が見てとれます。

下の写真のように、この石垣の縁近くに御殿桜の大木がしっかりと根を下ろしており、その根はこの堅塁の石垣の上段の石を蹴落とすほどにまで生長しています。
信幸もここまでは予想しなかったことでしょう。

沼田城再探訪-14

※私が子供のころ、この石垣の周りでもよく遊びました。石垣の下は笹藪となっていて、人が一人やっと通れる程度の踏み分け道がずーと続いていました。小学校4年生のときの担任は私を含む児童を引率して、庚申塔や馬頭観音像など、地域の歴史の遺物探訪をしてくれまました。そのため、私も歴史に関心を持つようになっていました。この石垣の東面に回り込むと、もう石垣はあるかないかわからない程度のものとなっていましたが、笹藪の中には屋根瓦の破片が落ちていることがあり、中でも円形で中央に三つ巴の模様のある破片を見つけたときは、宝物を見つけたような達成感を感じました。家に持ち帰り、親兄弟に見せたりしたあと、大切に保管した記憶があります。その後、同じような破片が当時の市公民館の廊下の展示ケースにもあったので、それが予想通り、沼田城のものだったことが確認できました。

再探訪でのこの石垣を見終えて鐘楼の前まで戻ると、下の写真のような石垣の遺構が目にはいります。
もちろん、上の写真で紹介した立派な石垣に下りる前にこの遺構は見えていましたが、話の順序の関係で後回しにしてありました。

沼田城再探訪-15

この、どちらかといえば小さい石を積んだ石垣による遺構は、私にとっては新鮮なものでした。
というのも、私が子供の頃や、自分の子を連れて帰省した頃には発掘されていなかったからです。
こんな構造があるとは私も考えもしませんでした。

沼田城再探訪-16

下の写真(現地の案内版)にあるように、西櫓台に伴う石垣・石段であるとされています。
敵が襲いかかる側ではないとはいえ、地味で簡素な感じのする石段ではありますが、この石段を信幸をはじめ、城破却までの藩主や家来・来客が上り下りしていたのかと考えると、感慨も生まれます。

下の図の右上にはこれらの石垣に囲まれた西櫓台が描かれています。

沼田城再探訪-17

河岸段丘沼田台地過去記事参照)の西縁に立つ沼田城。
今の沼田駅(河岸段丘の中でも低い段上にある)付近から沼田城を見上げた場合、この西櫓台の白壁がひときわ目に着いたであろうと思われます。

次回の記事で触れる予定の天守閣は台地の西の縁からは奥まったところにあり、沼田駅のところからは見えず、利根川をわたった対岸の台地上(宮塚付近)から、あるいは台地の北西側の利根川伝いのやや上(かみ:上流方向)(恩田、政所付近)からならその威風がよく見えたのではないでしょうか。


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2016-04-30 (Sat)
NHKテレビの大河ドラマ「真田丸」の中では脇役に甘んじていますが、真田信幸(信之)は、沼田城主として検地を行い、天守閣造営を含む城郭や城下町の整備をおこなったことで、その妻小松姫とともに沼田の人々に慕われている存在といえます。

沼田城の全景と信之・小松姫の石像については前回の記事でご紹介しました。

今回は、沼田城址の再探訪がいよいよスタートです。

下の写真は、今回の再探訪の中で城址公園内の案内板に描かれていた「上野国沼田城絵図」の主要部分です。
※写真はいずれもクリックで拡大します。

沼田城再探訪-5

江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644~1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、正保城絵図の一つで、真田氏第4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料とのこと。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさが1.76m×2.34mもある(上記案内版の説明文より)というのも驚きです。

沼田城(本丸、二ノ丸、三ノ丸、捨郭)の跡地は廃藩置県ののち荒れ果てていましたが、旧沼田藩士の子息である久米民之助が私財を投じて購入し、園地として造営したのち、沼田市(当時は町)に寄贈したということです。

この公園の正面入口(テニスコート[三ノ丸跡]と市の観光案内所の間にある)から歩き始めます。

※観光案内所は今回立ち寄りませんでしたが、利根教育記念館の跡地に最近たてられたもので、沼田市の真田観光への力の入れ方がうかがえます。

すると、正面に久米民之助(皇居の二重橋の造営をしたことでも有名)の胸像が鎮座し、私が子供の時と同様に来園者を迎えています(下の写真)。

沼田城再探訪-6

その左に歩を進めると、下の写真のように本丸跡の広々とした園地をバックに案内標識が目にはいります。

沼田城再探訪-7

本丸跡の園地にはいって西へ歩くと、鐘楼が目に入ります(下の写真)。

沼田城再探訪-8

この鐘は1634年に真田信之が城主を譲った信吉が鋳造したもので、群馬県の重要文化財になっています(前記事の年表参照)。

※太平洋戦争末期には家庭用の鍋釜やお寺の鐘なども戦争用に供出させられたといわれていますが、この鐘は戦争でも動かない重みがあったようです。鐘楼のほうは、私が子供の頃は、沼田市立沼田小学校(私の母校)の西校庭と堀跡をはさんだ南側の道路傍にありました。それが老朽化して取り壊されてから長い時間が経過していましたが、文化財としての価値が再認識され観光上のメリットもあることから、この地に再建されたのでしょう。私の中では町家に囲まれるように立ち、町内の人々に時を告げていた鐘楼(鐘撞き堂)のイメージがまだ濃く残っているため、城址公園内に再建された鐘楼には若干の違和感が消え去りません。

鐘楼の前に立ち、振り返ると、そこから本丸跡の園地の対角線方向(下の写真中央に見える鳥居[英霊殿]の向こう側)には天守閣のあった小高い丘が見えます。

沼田城再探訪-9

※写真左には3つの獣舎が写っています。いずれも小動物が飼育・展示されているものと思われますが、今回は見ている暇がありませんでした。

※私が小学生の頃は、タヌキ、アナグマ、キジ、ニホンザル(当時、一段と高いおおきな檻の中にいました)が飼われていました。
天守閣跡の向こう側にはツキノワグマの檻もあり、見学者が手にちょっとした餌をつまんで熊の眼の前で「おまわり」と声をかけると、熊は後足で立ち上がってヨタヨタと歩きながらターンをしたものでした。

話が横道に反れましたが、鐘楼の前を通り過ぎ、園地の西端に着くと、そこは小高い丘になっていて、その端には桜の古木が聳えています。
これこそ、沼田・利根で一番有名な桜の木である「御殿桜」(写真中央の曲がりくねった枝を持つ古木)です。

沼田城再探訪-10

※私が沼田市に引っ越してきた小学生低学年の頃、父がこの御殿桜の下に町内会のメンバーと陣取り、花見に興じていたシーンが瞼に浮かびます。

この桜の木は樹齢400年余と言われており、真田信之が城郭を整備した当時もすでに咲き誇っていたことになります。

北村明道の描いた真田時代の沼田城(蔵内城)の全景図前回の記事で紹介)にもこの桜は描かれています(下の写真の左上隅)。

沼田城再探訪-11

当時はこの御殿桜と肩を並べるかのように、二層とも三層ともいわれる(やぐら)が築かれていたことがこの図やこの記事の冒頭で紹介した図からわかります。

櫓といえばつきものは、石垣です。
それについては、次回ご紹介することにします。


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