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2017-09-05 (Tue)
昨年7月中旬、水戸市在住の昆虫研究家、染谷保さんに生息状況についての貴重な知見をご教示いただき、希少種ヒヌマイトトンボ Mortonagrion hirosei Asahina, 1972写真1,2)の観察・撮影をすることができました。

ヒヌマイトトンボの学名のうち、属名 Mortonagrion は従来から日本で知られていたモートンイトトボ Mortonagrion selenion (Ris, 1916) と同じモートンイトトンボ属です。
種小名 hirosei は発見者の一人である廣瀬誠氏にちなんでいます。

ヒヌマイトトンボ♂ 
写真1 ヒヌマイトトンボ Mortonagrion hirosei (写真はクリックで拡大します)

ヒヌマイトトンボ♀
写真2 ヒヌマイトトンボ M. hirosei


ヒヌマイトトンボ発見と新種記載の経緯

以下にヒヌマイトトンボ発見と新種記載の経緯をまとめてみました。

1971年7月7日に、従来見たことのないイトトンボ成虫が茨城県の涸沼で廣瀬誠氏と小菅次男氏によって多数採集され(Asahina, 1972;浜田・井上、1985;廣瀬、1997)、廣瀬氏によって東京の朝比奈正二郎先生に送付されました。

同じ1971年の7月4日に(高橋、1988)宮城県岩沼市で採集された同種トンボの標本も、地元のトンボ研究者から朝比奈先生に送られ(Asahina, 1972)、このトンボの生息環境の共通性と分布範囲の広がりを示す貴重な資料となりました。

形態の観察・検討をするのに十分すぎる量の標本に、採集者自身による克明な現場報告が添えられていたからでしょうか、朝比奈先生は涸沼産の標本をタイプ標本に抜擢し、海外の同属種の形態的特徴と比較するなど慎重に検討した上で、翌1972年に新種 Mortonagrion hirosei (ヒヌマイトトンボ)として記載しました(Asahina, 1972)。

なお、新種記載に先立って、朝比奈先生は、1971年7、8月に枝重夫氏を伴って、涸沼と宮城の発見地をそれぞれの発見者の案内のもと、訪れ、詳細な調査を行っています(Asahina, 1972)。


ヒヌマイトトンボ発見前後の日本産トンボ新種の出現状況

ヒヌマイトトンボ は、1971 年に発見され、翌年新種として記載された時点から現在まで、日本で発見され新種記載された最後のトンボと言われています。

1957年に日本トンボ学会(の前身となる組織)が発足して以来、1970年までに、日本各地のトンボ相の解明が進み、1960年代に2種(サキシマヤマトンボ Macromidia ishidai Asahina, 1964オキナワコヤマトンボ Macromia kubokaiya Asahina, 1964)が発見ならびに新種記載された(浜田・井上、1985、参照)のを最後に、もう新種のトンボは日本では見つからないだろうと思われるようになっていました。

1960年代には、他に3種のトンボ(リュウキュウカトリヤンマ Gynacantha ryukyuensis Asahina, 1962アマミサナエ Asiagomphus amamiensis (Asahina, 1962)[以上、Asahina, 1962、参照];ベニイトトンボ Ceriagrion nipponicum Asahina, 1967[浜田・井上、1985、参照])が新種記載されていますが、これらは1950年代以前からその存在が知られていて、別の学名が充てられていたものでした 。

そんな雰囲気が日本のトンボ界に充満していた1971年に、ヒヌマイトトンボが劇的に発見されたというわけです。

朝比奈先生はヒヌマイトトンボの記載論文(Asahina 1972)の冒頭で、「It was quite astonishing to find an entirely unknown dragonfly species from Japan.」(日本から全く知られていないトンボの種が発見されることは[この時点においては]大変な驚きであった)と書いています。

そのようないきさつから、ヒヌマイトトンボの発見は、日本のトンボ研究者・愛好家に意外感から換わった喝采をもって迎えられたようです。
その空気感は、当時、北海道の大学院でトンボ研究を開始して間もなかった私にも、じんわりと伝わってきました。

その後、南西諸島を始めとした島嶼部を含む全国各地で、トンボ相の調査がより一層広範に行われたにも関わらず、人知れず生息していた個体群が発見され、それが新種であったケースはこれまでのところ生起していません。

このことは、ヒヌマイトトンボの記載論文のタイトルに「the last new dragonfly species from Japan?」を書き添えられた朝比奈先生の慧眼を証明して余り有ります。

なお、1970年以前からその存在が知られ、別の学名が充てられていた地域個体群を新種として記載した例であれば4件あります(コシキトゲオトンボ Rhipidolestes asatoi Asahina, 1994ヤンバルトゲオトンボ Rhipidolestes shozoi Ishida, 2005アマミトゲオトンボ Rhipidolestes amamiensis Ishida, 2005オキナワサラサヤンマ Sarasaeschna kunigamiensis (Ishida, 1972)(浜田・井上1985および尾園ほか2012を参照)。


ヒヌマイトトンボの分布範囲と種の存立基盤

ヒヌマイトトンボが新種記載された以降、汽水域のヨシ原に着目したトンボ相調査が広く行われるようになり、現在までに宮城県から福岡・大分両県にかけて、海岸線に沿って飛び石状に散った分布域の全体像が浮かび上がっています(尾園ほか2012)。

更には、中国、台湾からも記録されるようになり(尾園ほか2012)、日本固有種のリストからは離脱することになりました。

そのような中、現在の日本におけるヒヌマイトトンボの存立基盤は脅かされており、環境省レッドデータでは「絶滅危惧I類(CR+EN)」にランクされています。

いきものログ」(環境省自然保護局生物多様性センター内)には、「生息地が沿岸河口地域に集中しているため、つねに水質汚染と河川改修の脅威にさらされています。すでに数カ所の産地では絶滅しており、残りの産地でもいつ絶滅に追いやられても不思議ではない状態が続いています。」との総括が見られます。

一般的な開発・汚染とは別に、東日本大震災の大津波の影響によっても、宮城県から福島県にかけての太平洋岸に飛び石上に存在していたヒヌマイトトンボの個体群もわずか1箇所を除いて絶滅していることが報告されています(牧野、2017:三田村、2017)。

宮城県の場合、震災以前から海岸の開発により、ヒヌマイトトンボ生息地の破壊と分断が続いていて、限りなく絶滅に近い状態だったところに津波がトドメを刺したというのが実態に近いようです(永幡、2013)。


本題:私のヒヌマイトトンボとの出会い

さて、一般論はこのくらいにして、以下に、私とヒヌマイトトンボとの初対面のエピソードをご紹介しようと思います。

真夏日予想の出ていたその日の未明、埼玉県内の自宅から車を乗り出し、一路、目的地に向かいました。

午前10時少し前に目的地周辺の駐車場に到着し、カメラと少量の飲料水を持ち、まずは調査予定ポイントの周辺部を歩き回りました。

強い日差しと真夏日の気温に見舞われる中、木陰を渇望しながら、それでもトンボの姿はないか、眼を凝らします。

10時22分。ブッシュの水面とは反対側にあたる部分の笹の葉上に、ハグロトンボ Atrocalopteryx atrata (Selys, 1853) ♀がとまっていました。

ハグロトンボ♀
写真3 ハグロトンボ Atrocalopteryx atrata 

遠巻きに調査ポイントの周囲を見るのを30分ほどで切り上げ、ヒヌマイトトンボ成虫の活動が期待される第一の調査ポイント写真4)にたどりつきました。

ヒヌマイトトンボの生息環境(1) 
写真4  ヒヌマイトトンボ M. hirosei の生息環境(1)

遠浅の水面から密生したヨシ Phragmites australis (Cav.) Trin. ex Steud. が突き出ている場所で、このヨシ群落の中に出来ている細い踏み分け径をゆっくり歩くと、小さなイトトンボがヨシの根本近くから飛び立ち、株間を器用に縫いながら低空のまま少し移動してとまりました(写真4の中央、枯れヨシの茎にとまっています)。


黒っぽい翅胸前面に円形の淡黄緑色紋が4つ見えたことから(写真1参照)、予習で特徴を把握済みでしたのでヒヌマイトトンボ♂であるとすぐわかりました。

ヒヌマイトトンボ♂ 
写真1(再掲)  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♂

この独特の斑紋パターンは日本ではヒヌマイトトンボ♂にだけ見られ、同属のモートンイトトンボ♂ではイトトンボによく見られる黒色と淡色の縦縞パターンです。

もう一つ、モートンイトトンボと斑紋の大きな相違があり、眼後紋(後頭部の淡色斑紋)がモートンイトトンボ♂ではL字状の紋が左右1個ずつなのに対し、ヒヌマイトトンボ♂では円形の紋が左右2個ずつになっています。

したがって、翅胸前面の水玉模様4個と水玉状の眼後紋4個が観察者から(そして多分他のトンボ個体からも)視認されることになります。

さて、観察メモに戻ります。

その1分後、今度は前半身がオレンジ色後半身が黒っぽいイトトンボがヨシの若株の先端近くにとまりました(写真2参照)。

ヒヌマイトトンボ♀
写真2(再掲)  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♀

これも予習通りのヒヌマイトトンボ♀だとすぐ分かりました。
ただし、写真の写りはあまりよくなかったので、少し後に撮ったものを写真2としました。

このオレンジ色は、まだどちらかといえば未熟な段階の♀が装う色で、成熟が進むとスモークがかかってきて褐色へと変わっていくとされています。

今回の観察地のある関東地方では♀の体色はこのワンパターンですが、中国地方以西では♂と同じような体色・斑紋をもつ♀が現れることが知られています(尾園ほか、2012)。

ヒヌマイトトンボの♀の体色は、同属のモートンイトトンボの♀のそれと紛らわしことが知られています。
実際に同じ場所に同じ時期に出現することもあるようですので、区別点を押さえておく必要があります。

ヒヌマイトトンボ♀では、頭頂部の単眼3個を取り囲むように、はっきりした黒色斑があります。
モートンイトトンボ♀もオレンジ色の頭部を持ちますが、そのような黒色斑はなく、その代わりに複眼に沿ってより淡い色の縦斑があります(尾園ほか、2012)。

再び、観察メモに戻ります。

その後も、トンボの静穏な暮らしを脅かさないように注意しながらゆっくり歩き、本種を見るたびにカメラを向けました。

1時間半粘った間に撮ったそれぞれ数個体の単独♂、♀の中で、私が選んだベストショットが写真1,2でした。

いずれも、ヨシの株間の水面近い所の枯れたヨシの茎や葉、あるいはスゲ類の葉にとまっていました。

この間、ラッキーなことに交尾中のカップルも発見し、撮影することができました(写真5、6)(11時04分~06分)。

ヒヌマイトトンボの交尾(1) 
写真5   ヒヌマイトトンボ M. hirosei の交尾(1)

ヒヌマイトトンボの交尾(2)
写真6  ヒヌマイトトンボ M. hirosei の交尾(2)

交尾中の♀は、文献が教えるとおり、オレンジ色の期間を通りすぎた褐色の体色をしています。
ただし、頭頂部の黒班は確認できました。

このカップルは、発見時には大き目のスゲ類あるいはイグサ類の鉛直の葉にとまって交尾中でしたが、観察者の動きに反応して写真5、6のように枯れヨシの茎にとまり替えました。

ここで交尾中、♂が腰を動かしている様子がわかる2コマ連続写真も得られました(写真7)。

ヒヌマイトトンボの交尾(3)
写真7 =写真5  ヒヌマイトトンボ M. hirosei の交尾(3)

交尾中のトンボ♂のこの腰の動きの機能については過去記事「グンバイトンボ:難儀な交尾も心を一つにすれば成る」に少し立ち入って書いたことがあります。

暑さへの観察者の我慢も限界近くなり、一通り見終わったところで、昼食のため、この調査ポイントを後にしました。

車で移動しながら、コンビニを見つけて、そこの木陰に駐車し、簡単な昼食と休憩をとったあと、第二の調査ポイントに向いました。

12時45分頃、午後の調査地、第二の調査ポイントに到着しました。

土砂の不均一な堆積などから水深が不均等なところのためか、ヨシ主体の湿性草原だがミゾソバPolygonum thunbergii Sieb.et Zucc.などの葉の広い草本が密に侵入しているところです(写真8)。

ヒヌマイトトンボの生息環境(2)
写真8  ヒヌマイトトンボ M. hirosei の生息環境(2)

踏み分け径を歩くと、しばらくして、最初のヒヌマイトトンボ♂を発見しました。

地面近くの枯草の葉の先端にとまっていました。

その1分後、ミゾソバの葉の先端にとまる1♂を見つけて撮影しました(写真9)。

ヒヌマイトトンボ♂(2) 
写真9  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♂(2)

このブログで時々言及する事柄になりますが、トンボ類では一般に♂のほうが♀よりもファッショナブルな装いをしていて、ヒヌマイトトンボもその例にもれません。

胸部、頭部それぞれの背面の黄緑色の水玉に加えて、腹部第7節後端の淡色斑紋が、本種♂にいかにもダンディーな雰囲気を醸し出しています。

このメリハリのある色彩パターンは、きっと♀を惹きつける効果を持っているのではないでしょうか。

さて、更にその1分後、2分後にも、別♂がやはりミゾソバの葉、茎にそれぞれとまっていました。

更に別の♂が、こちら向きにミゾソバの葉先にとまっているのを撮影しました(写真10)。

ヒヌマイトトンボ♂(3)
写真10  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♂(3)

こちらを見ているトンボ紳士、なかなか、きりっとした表情です。

そして、今度はです。
ミゾソバの茎にとまっています。

近づくとこの♀は少し飛んでミゾソバの葉にとまりました(写真11)。

ヒヌマイトトンボ♀(2)
写真11  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♀(2)

この♀はあざやかなオレンジ色ですので、まだ若い個体ということになります。

1分後、今度はスゲ類やミゾソバの葉にとまるイトトンボを発見、撮影しました(写真12)。

木漏れ日があたると露出オーバー、あたらないと露出不足になる撮影条件でした。写真12は、露出不足のものを強引に輝度&コントラスト調整したものです。

ヒヌマイトトンボ未熟♀ 
写真12  ヒヌマイトトンボ M. hirosei 未熟♀

複眼に不透明なグレー味があり、腹部の暗色斑の発色も薄いことから、羽化後間もないステージ、つまりテネラルteneralの段階にあることがわかります。

オレンジ系の色は若干出ていますので、即座にヒヌマイトトンボのテネラル♀と判定するところでしたが、頭頂部に特有の黒色斑が見当たりませんので、慎重にならざるをえません。

しかし、かといって、モートンイトトンボ♀のような複眼沿いの淡色斑もなければ、アオモンイトトンボ Ischnura senegalensis (Rambur, 1842)アジアイトトンボ Ischnura asiatica (Brauer, 1865) のような翅胸前面の黒色ストライプが現れそうな兆しもみあたりません。

そんな中、私のフェイスブック仲間のお一人、Nature_Oyajiさんのブログ「オヤヂのご近所仲間日記」にヒヌマイトトンボの「羽化間もない個体」(写真:外部リンク)が掲げられているのを見つけました。

Nature_Oyajiさん撮影のその写真の♀と私の写真12の♀の外見が瓜二つのことから、写真12の♀がヒヌマイトトンボ♀であることの意を強くしました。

この後、オレンジ色がかなり発色している♀2頭を見つけ、カメラに収めました。

最後の被写体は、小さな虫をむさぼっている成熟でした(写真13 )。

ヒヌマイトトンボ♂、摂食中
写真13  ヒヌマイトトンボ M. hirosei ♂ 摂食中

この♂にフォーカスした2分間30コマの撮影シーンの最初と最後を比較すると、餌昆虫の腹部はほぼ食べつくされ、翅は脱落していました。

この間、このトンボは両前脚を器用に使って餌昆虫の腹部を自分の口器のように引き寄せていることがわかりました。

午前中の観察で確認できなかった産卵行動や交尾成立前の♂♀の行動などを午後見られるのではないかと、淡い期待をもっていましたが、踏み分け径を2周した限りでは単独個体ばかりでしたので、午後1時を少しまわったところでこの調査ポイントでの観察を切り上げました。

これらの撮り残しのシーンは次回以降の観察トリップのドライバーの前にぶらさがるニンジンとしては十分過ぎるものです。

車に戻り、コンビニで補給した後、まだ時間がありましたので、ヤンマか何かがいそうな湿地を探しに丘陵地方面へと向かいました。

ところが、この後ドライブ中に熱中症の症状が出てしまい、現地の病院で治療を受ける羽目になり、この日はヒヌマイトトンボ一色の一日ということになりました。

この失敗を教訓に、以後は、十分な量のスポーツドリンクを携帯し、体が要求する前に多めに飲用すること、灼熱の太陽の下で1時間を超えるような観察を控えること、休憩時間には冷房の効いた空間で十分体を冷やすことなどに注意することにしています。

最後になりましたが、貴重な情報を提供された染谷さんに感謝いたします。


引用文献:
- Asahina, S. (1962) Odonata of the Ryukyu Archipelago, Part III. The Odonata from the Amami Islands, adult dragonflies. Tombo 5(1-4), 4-18, 
- Asahina, S. (1972) Mortonagrion hirosei, the last new dragonfly from Japan? Kontyu 40 (1): 11-16, figs. 1-12.
- 浜田 康・井上 清 (1985) 日本産トンボ大図鑑。講談社。
- 廣瀬 誠(1997)羽化の刻 茨城のトンボ誌。茨城虫の会。
- 牧野 周(2017)震災後の宮城県のヒヌマイトトンボとコバネアオイトトンボの生息について。Tombo, 59:11-15.
- 三田村敏正(2017)東日本大震災が福島県沿岸のトンボ類に及ぼした影響。Tombo, 59:23-28.
- 永幡嘉之(2013)東北の自然はどこに向かうのか(4)。月刊むし、(512):28-34.<牧野(2017)からの間接引用>
- 尾園暁、川島逸郎・二橋亮(2012) 『日本のトンボ』 文一総合出版。
- 高橋雄一(1988)宮城県のトンボ。ぶなの木出版。


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2017-08-21 (Mon)
夏目英隆さんに同行しての、昨年7月上旬の他県へのトンボ・トリップの最終調査地、丘陵地を刻む河川の中流部で観察したトンボのうち、カワトンボ属(現、元)3種オナガサナエは前回までの2つの記事で紹介しました。

その同じ場所で、コヤマトンボ Macromia amphigena Selys, 1871 のを観察・撮影することができました(写真1、3)。

コヤマトンボ、♂ 
写真1 コヤマトンボ Macromia amphigena ♂ (写真はクリックで拡大します)

観察者である私は、胴付長靴(ウェーダー)を着用し、川の中央部に仁王立ちし、通りかかるヤマトンボ科 Macromiidae の成虫が眼の前を通りすぎるたびにシャッターを数回押して、なんとか画面にそのトンボの姿を収めようと試みました。

しかし、午後3時半をまたぐ7分間に、約180回シャッターを切ったのですが、どれもこれもブレたり、ピンボケだったりと、空振りの山を築く結果となりました。

上の写真1は、それらピンボケ写真の中で、証拠写真としてなら使えそうということで残った最後の1枚です。

トリミングしていますが、これ以上のトリミングをして拡大表示するとお目汚しになる、ギリギリのものです。

それでもなんとか、画面で拡大することで、腹部第3節の黄色斑紋の特徴で同属他種と区別できました。

下の写真2も、上記の180コマのうちの1コマですが、同様に水面上の低いところをヤマトンボ科の1種の成虫♂がパトロールしていることを説明するのに使えるアングルで撮れています(トリミング後)。

コヤマトンボ属、♂
写真2 コヤマトンボ属の1種 Macromia sp. 

ただし、写真2の個体がコヤマトンボと言い切るに足る特徴が判然としませんので、安全のため、キャプションはコヤマトンボ属の1種 Macromia sp.の♂としておきました。

下の写真3は、この川でトンボの生態の調査研究を続けておられる夏目さんが、これらパトロール中のコヤマトンボ♂をネットインされたものを、私が撮影させてもらったものです。

コヤマトンボ♂、記録用写真 
写真3 コヤマトンボ Macromia amphigena ♂、記録用写真

手持ちされた状態で撮影された写真3は、前後翅の翅脈はもちろん、頭部や胸部の体毛まで識別可能な写りになっていますので、以下のようなコヤマトンボの特徴(参考:尾園ほか、2012)を確認することが可能です。

・尾部上付属器の先端が外側に弱く湾曲する(オオヤマトンボEpophthalmia elegans [Brauer, 1865]では先端が内向きになる)。
・腹部第3節の黄色斑紋は黒斑によって斜めに切断されることはない(キイロヤマトンボMacromia daimoji Okumura, 1949との区別点)。
・腹部第10節背面が背方(上方)に突出しない(オオヤマトンボでは突出する)。<ただし今回の写真ではこの区別は若干不明瞭>

以上のように、今回の観察では種まで判別できたヤマトンボ科の種は、コヤマトンボのみでしたが、繰りかえし観察者の足元付近を通過してパトロールしていた個体の中に、別種のキイロヤマトンボが含まれていなかったとは言い切れません。

いないことの証明は難しいですが、いたことの証明のためには撮影技術を格段に向上させるか、一時的にネットインして手持ち撮影した後リリースするかが必要となります。

なぜリリースかといえば、希少種の場合は、よほどの研究目的がない限り、標本にして持ち帰ることは差し控えるべきという考えを私はもっているからです。

後者は若干安易な感じがしますので、ふだんから少しずつ撮影技術を向上させるように努力したいところです。

さて、ヤマトンボ科♂のパトロール中の姿を収めるために、写真1、2を含む180コマの撮影をしたポイントをおさめた景観写真を、下の、写真4に掲げます。

コヤマトンボが観察された河川中流部 
写真4 コヤマトンボが観察された河川中流部

写真4から、浅い砂礫底が拡がったこの清冽な河川中流部は、コヤマトンボ属を含む各種河川性トンボの楽園となっていることが伺われます。

さて、このトンボ・トリップのシリーズ報告最終回の記事でしんがりに控えているのは、この河川中流部で観察されたトンボ科3種です(写真5~7)。

ノシメトンボ♂ 
写真5 ノシメトンボ Sympetrum infuscatum (Selys, 1883) ♀ (再掲)

上の真5ノシメトンボ Sympetrum infuscatum は、今回のシリーズ記事のうちの「ノシメトンボ:ハンディキャップもなんのその」で、準主役級の役どころですでに登場済みです。

ノシメトンボは、脇役としてですが、過去記事「トンボ王国訪問記(2):ヒメサナエと小さな虫たち」にも登場しています。

シオカラトンボ♂
写真6 シオカラトンボ Orthetrum albistylum (Selys, 1848) ♂

上の写真6シオカラトンボ Orthetrum albistylum は、川岸の砂地の上に倒れた枯れた竹の茎にとまっているところですが、白粉がほとんど吹いておらず、まだほとんど成熟が進んでいないことがわかります。

シオカラトンボはどこにでもいる普通種ですので、当ブログではわき役になりがちですが、それでも以下の記事ではしっかり主役も務めています。

ウスバキトンボ♀ 
写真7 ウスバキトンボ Pantala flavescens (Fabricius, 1798) ♀

上の写真7ウスバキトンボ Pantala flavescens は、川岸の背の高い草の葉柄の付け根にぶら下がるようにとまっているところです。

ウスバキトンボは今回のトンボ・トリップで溜め池群でも観察・撮影され、過去記事「トンボらの生命はぐくむ稲の里:アキアカネ、etc.」に登場済みです。


謝辞:
今回のトンボ・トリップの一連の記事を終えるにあたり、現地へのご案内、観察されたトンボについての知見のご教示を下さった夏目さんに、この場を借りて感謝いたします。


引用文献: 
尾園暁、川島逸郎・二橋亮(2012) 『日本のトンボ』 文一総合出版。


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2017-08-17 (Thu)
夏目英隆さんに同行しての、昨年7月上旬の他県へのトンボ・トリップの最終調査地は、丘陵地を刻む河川の中流部の2地点でした。

これら二つの調査地点では、川幅はゆったり拡がり、水深は浅く、砂礫底で、ほとんど汚染が感じられない綺麗な水がサラサラと流れていて、川岸には竹林や草の生い茂った土手が迫っていました。

このうち、一方の調査地点では、日本産アオハダトンボ属(現、元)全3種の豪華な揃い踏みが見られました。
(タイトルの「アオハダトンボ属」に「現、元」が入っている理由については、文末の注をご覧ください。)

まずは、アオハダトンボ Calopteryx japonica Selys, 1869写真1,2です。

アオハダトンボ♂(初撮影) 
写真1 アオハダトンボ Calopteryx japonica、♂(写真はクリックで拡大します)

アオハダトンボ♀
写真2 アオハダトンボ Calopteryx japonica、♀

私にとって、アオハダトンボはデジタル一眼カメラを下げて歩くようになってからは初対面、初撮影となりました(感激)。

アオハダトンボは、比較的清冽な河川に限られるようで、私の住む埼玉県でもなかなか見る機会がありません。

今年、アサヒナカワトンボ、ミヤマカワトンボとともに、県内のある川で本種が見られたのはちょっと意外でした(過去記事「カワトンボ科3種:翅も艶やか裏銀座」参照)。

それはさておき、今回の調査地点で観察されたアオハダトンボ属(現、元)の種の話題に戻します。

次は、ハグロトンボ Atrocalopteryx atrata (Selys, 1853)[かつては、Calopteryx atrata Selys, 1853と呼ばれていた]です(写真3,4)。

ハグロトンボ♂ 
写真3 ハグロトンボ Atrocalopteryx atrata、♂

ハグロトンボ♀
写真4 ハグロトンボ Atrocalopteryx atrata、♀

ハグロトンボ は多少の水質汚染には耐えるようで、私の住む、さいたま市内の比較的自然の残る公園やその周辺でもまだ見ることができます。

アオハダトンボとハグロトンボの区別点

アオハダトンボとハグロトンボ元同属だっただけあって、たいへんよく似ていますが、♀の場合は翅に白い偽縁紋があればアオハダトンボ、無ければハグロトンボと簡単に判別できます。

一方、アオハダトンボとハグロトンボの♂同士の区別はなかなか微妙です。

手持ちの図鑑類(浜田・井上 1985)、杉村ほか(1999)、尾園ほか(2012)を参考にし、両種♂の区別点をまとめてみました。

アオハダトンボ♂:
a1 翅の先端は放物線状に少し細まる
b1 翅の色は藍色(青紫色)
c1 翅脈のうち前横脈は金色
d1 腹部先端(第9,10節)下面が明らかに白い

ハグロトンボ♂:
a2 翅の先端はほぼ半円状
b2 翅の色は黒褐色
c2 翅脈のうち前横脈は黒色
d2 腹部先端(第9,10節)下面は、特別白くない

これらの特徴は、標本を持ち帰り、ルーペを用いながら様々な角度で見比べれば、それほど苦労することなく種の判別ができるのですが、今の私のように一眼デジタルカメラの画像だけで判断する場合には、微妙なケースにも少なからず出くわします。

a1-a2の区別については、個体変異によって重なりが出てくるため、必ずしも明瞭でなくなります。

b1-b2の区別点も採光の具合や角度によって、区別しにくい場合があり、d1-d2の区別点はその部分が蔭になっていたり、ピンボケになっているため分かりにくいことがあります。

そんな中、意外に重宝するのがc1-c2です。
ただし、これも光のあたり具合によっては誤認することがありえますので要注意です。

再び、今回の調査地点で観察されたアオハダトンボ属(現、元)の種の話題に戻します。 

最後は、ミヤマカワトンボ Calopteryx cornelia Selys, 1853です(写真5)。

ミヤマカワトンボ♂ 
写真5 ミヤマカワトンボ Calopteryx cornelia、♂(記事アップ時には♀と誤記していたのを訂正)

今回は、ミヤマカワトンボのみ、♀の写真を撮る機会がありませんでしたので、過去記事「ミヤマカワトンボ♀:にこやかにお出迎え」から埼玉県で撮影した♀の写真を再掲しておきます(写真6

ミヤマカワトンボ♀(1) 
写真6 ミヤマカワトンボ Calopteryx cornelia、♀ 過去記事から再掲)

ミヤマカワトンボは、アオハダトンボ、ハグロトンボからは、以下の特徴により容易に区別することができます。
1.翅の色が半透明な赤褐色である。
2.後翅の先端付近に濃褐色の帯状斑がある。
3.体全長が63-80mmと大型(日本産均翅亜目で最大)
  (アオハダトンボは55-63mm、ハグロトンボは54-68mm)[体長データは、尾園ほか2012]

以上、日本産アオハダトンボ属(現、元)全3種の生態写真を♂・♀揃いでご紹介しました。

このように、華麗なトンボ達が今でも揃って出迎えてくれる、今となっては貴重なこの川の景観写真をご紹介し(写真7)、今回の記事を閉じることとします。

2016年7月上旬、調査地(河川中流) 
写真7 アオハダトンボ属(現、元)3種が観察された河川中流部

次回以降の記事も、この川で見たトンボ達について取り上げます。


注:タイトルの「アオハダトンボ属」に「現、元」を付した理由:
アオハダトンボ属はCalopteryx Leach, 1815のことを指します(ハグロトンボ属と呼ばれていたこともあります)。タイトルの「アオハダトンボ属」に「元」が入っているのは、Calopteryx atrata Selys, 1853の学名を付されたハグロトンボが、DNA解析の結果、タイワンハグロトンボ属Matrona Selys, 1853に近縁の新設属のAtrocalopteryx Dumont, Vanfleteren, De Jonckheere & Weekers, 2005に移され、Atrocalopteryx atrata (Selys, 1853)と呼ばれることになったためです[尾園ほか2012]。
残りのアオハダトンボCalopteryx japonica Selys, 1869とミヤマカワトンボCalopteryx cornelia Selys, 1853の属名は変更されていません。

引用文献: 
浜田 康・井上 清 (1985) 日本産トンボ大図鑑。講談社。
杉村光俊・石田昇三・小島圭三・石田勝義・青木典司 (1999) 原色日本トンボ幼虫・成虫大図鑑。北海道大学図書刊行会。
尾園暁、川島逸郎・二橋亮(2012) 『日本のトンボ』 文一総合出版。


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2016-09-18 (Sun)
以前の記事「ヤマサナエ:学名の謎」で、私が岐阜県で観察・撮影したヤマサナエAsiagomphus melaenops (Selys, 1854)(下の写真)の学名の謎についての続報です(解決篇)。

この学名のうちの種小名melaenopsの意味は「黒い眼」であるはずなのに、ヤマサナエそのものの眼は黒くない――これは謎である、として私の宿題としていました。

ヤマサナエ♀(1)160513
写真.ヤマサナエAsiagomphus melaenops (Selys, 1854)♀。 (生方秀紀撮影、再掲) (クリックで拡大)

その時の私の文章を再掲します。

「属の学名Asiagomphusは、「アジアのサナエトンボ」、種小名のmelaeno「黒い」+ops「眼」を意味します。しかし、その割に生体の眼は黒くありません。標本の眼であれば、黒っぽくなってもおかしくありませんので、命名者のSelysがその色からつけたとも考えられますが、それもあまり考えにくいです。浜田・井上(1985)ではopsを頭部を意味するとしています。私にはこれもしっくり来ませんので宿題とします。」

今回、Selys自身によるヤマサナエの形態記載の原文(Selys 1858; 388頁)を閲覧する機会がありましたので、そのうちの頭部についての記載の部分を抜き出してご紹介します。

Selysによるヤマサナエ頭部の形態記載(Monographie des Gomphinesより)
Selysによるヤマサナエ頭部の形態記載(Monographie des Gomphinesより  (クリックで拡大)

頭部の記載部分の本文(フランス語)は以下のとおりです。
♂adulte. Tête noire, excepté les yeux qui sont bruns, un point jaune à la base des mandibules, et une large bande jaune verdatre au front sur la partie plane du dessus, mais descendant légèrement sur le devant; la lame de l'occiput assez relevée, à cils noirâtres.

以下は、仮に和訳したものです。
♂成虫。茶色の複眼を除いて頭部は黒く、顎の基部に黄色のスポットがあり、また上部の平坦部の前面には緑がかった黄色の大きな帯があるが、前面は僅かに下がる。後頭部の縁は十分に隆起し、睫毛(触角のことか?)は黒っぽい。

このように、Selysが参照した標本も複眼は茶色(つまり黒くはない)だったことがわかります。
一方、頭部は黒いと記載していますので、melaenopsが浜田黒い頭を意味するという浜田・井上(1985)の解釈とは合致します。

どうやら、「opsに頭という意味がある」という先輩の教えに素直に向き合ったほうがよさそうです(反省)。

そこで、褌を締め直して、インターネット検索を繰りかえすことで、上でのギリシャ語opsの意味探しをやり直すことにしました。

あれこれ調べているうちに、opsのギリシャ語表記がὄψであることが確認できました。

引き続き「ὄψ + eye」で検索したところ、以下のサイトにたどり着きました。

Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon
http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Do)%2Fy2

そして、そこには、なんと、ὄψの訳語として、eye(眼), face(顔)の二つが並んでいるではありませんか(下記)。

ὄψ (B), ἡ, gen. ὀπός, (ὄψομαι)
A.= ὄψις, the eye, face, Emp.88, Antim.63.
Henry George Liddell. Robert Scott. A Greek-English Lexicon. revised and augmented throughout by. Sir Henry Stuart Jones. with the assistance of. Roderick McKenzie. Oxford. Clarendon Press. 1940.

これでようやく宿題が終りました。

ヤマサナエの学名のうちの種小名melaenopsの意味は「黒い顔」です。

確かに、当時の同属種の代表であるGomphus vulgatissimus (Linnaeus, 1758)の顔(写真:外部リンク)と比べれば、ヤマサナエの顔は(前額上部を除いては)黒いです(下の写真)。

ヤマサナエ♂顔アップ160513
写真.ヤマサナエAsiagomphus melaenops (Selys, 1854)♂の顔をアップ。 (生方秀紀撮影、初出)  (クリックで拡大)

この学名の件についても、最初の見込みを訂正する結果になりました。
当初の記事の末尾にも今回のこの記事をリンクして、誤解が拡散しないようにしたいと思います。
思い込みにあぐらをかいて独り相撲をとってしまったことに反省しきりです。

とはいえ、謎解きは私のブログ記事作成のモチベーションの一つですので、また同じようなことをやらかさないとも限りませんが、皆様におかれましては、眉に唾をつけながらこのブログの記事のご愛読を続けていただければと思います。

引用文献:
浜田 康・井上 清 (1985) 日本産トンボ大図鑑。講談社。
Sélys Longchamps, Edmond de, (1858): Monographie des Gomphines. Mémoires de la Société Royale des Sciences de Liège 9: 1-460, 23 pls.

写真外部リンク:
Josef Lubomir Hlasek: Gomphus vulgatissimus 2499. in: Photo Gallery Wildlife Pictures
http://www.hlasek.com/gomphus_vulgatissimus.html

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2016-09-17 (Sat)
日本産のカワトンボ属Mnaisは、以前の記事でも書いたように、形態による分類は混乱を極めていたものが、今世紀に入って、DNAの解析により、2種(二ホンカワトンボMnais costalis Selys, 1869(写真1)とアサヒナカワトンボMnais pruinosa Selys 1853(写真2))にすっきり分けられました。

ニホンカワトンボ橙色翅型♂160513
写真1.ニホンカワトンボMnais costalis 橙色翅型♂(岐阜県にて)。 (クリックで拡大、以下同様)

アサヒナカワトンボ♂(1)160513
写真2.アサヒナカワトンボMnais pruinosa ♂(岐阜県にて) (再掲) 

これは裏返せば、DNAを調べないで形態だけで判断すると誤同定という落とし穴にはまる危険性が残されていることを意味します。

これまでのDNA+形態の精査により、Mnais属2種のうちどちらか1種しか分布していないことがはっきりしている地域では、形態だけで(あるいは形態を精査することなく判断しても)心配ありません。

 →私が以前住んでいた北海道、それに東北地方などはこれに該当し、二ホンカワトンボだけが分布します。

また、西日本の大部分のように、両種が大幅に重なって分布していることで、無駄な種間交雑を避ける進化が働いて両種の形質差が誇張される方向に進化(これを形質置換といいます(記事1記事2参照))が生起した地域でも、形態による区別はしやすくなっています。

 →私が書いた記事のうち、岐阜県で観察したカワトンボの記事(記事1記事2記事3記事4)はこのケースに該当し、両種とも共存していましたが、形態による区別は容易でした。

問題は、この両種が戦国大名の版図のように、互いに境界を接しながらも混棲しない分布の仕方をしている場合です。
この場合、混棲が継続しないために形質置換が起こりにくく、そのため、形態的によく似た両種の形質差が拡がらず、同定者を泣かせることになります。

 →私が書いた記事のうち、埼玉県での観察の記事(記事5記事6)(生態写真は写真3)がこのケースに該当します。

Mnais_costalis_160422-b
写真3.埼玉県西部の低山地で観察したカワトンボ属♂ (再掲)

埼玉県のカワトンボ属の観察個体を記事にするにあたり、写真だけでなく標本によっても翅の不透明斑の拡がりや縁紋の長さ・幅、胸部と頭部の比率などを検討し、その時点ではニホンカワトンボと判断しました。

ところが、今回、文献を検索していたところ、埼玉県を含む地域のカワトンボ属のDNAを調べ、詳細に検討した、苅部ほか(2010)の論文にたどり着きました。

苅部ほか(2010)の研究は、神奈川県を中心に、東京都、静岡県、山梨県、そして埼玉県の多数の山地からサンプルを採取して、DNA(核DNAのITS1領域の塩基配列)分析および形態観察を行い、ニホンカワトンボおよびアサヒナカワトンボ、そして(この両種の雑種を起源とする)伊豆個体群の3分類群の、分布状況の詳細を明らかにしたものです。

この論文そのものをネット上で閲覧することができます。→こちら

論文全体の詳細はそれに譲るとして、埼玉県とそれに隣接する東京都についての結果を簡単に紹介しておきます。

東京都では、ニホンカワトンボは八王子市街地、町田市、稲城市などの丘陵地から、アサヒナカワトンボは高尾山、青梅市、あきる野市、日の出町、檜原村、奥多摩町などの山地から、そして伊豆個体群は檜原村、奥多摩の河川最上流部から得られています。

要するに、東京都では、南東の低い地域にニホンカワトンボが、北西の高い地域にアサヒナカワトンボが、最上流部に伊豆個体群がというように、互いに側所的に分布していることがわかります。

次に、埼玉県です。
この論文の図1(地図に採集地点を打点したもの)から、埼玉県の部分を抽出して模写したのが下図です。

DNA型に基づくカワトンボ属2種の埼玉県内の分布(苅部ほか、2010より)
図1.埼玉県におけるニホンカワトンボおよびアサヒナカワトンボのサンプル採集地点(苅部ほか、2010より一部模写)

これを見ると、埼玉県西部の丘陵地から山地の5カ所からはいずれもアサヒナカワトンボが、東部の平野部からは(1カ所だけですが)ニホンカワトンボが採集されていることがわかります。

以前の私の記事(記事5記事6)で、ニホンカワトンボとした個体の観察・撮影地点は、上の地図のアサヒナカワトンボの採集地点(+東京都での本種の採集地点の最北東の点)を直線で結んでできた折れ線の左側(西側、より山地側)に入ります。

したがって、私はどうやら落とし穴にはまっていたようです。
つまり、この記事で取り上げたトンボの種名はアサヒナカワトンボとしたほうが正解にずっと近かったといえます。

ただし、苅部ほか(2010)もいうように、両種の境界地域で混棲や雑種個体も観察されることもあるので、今回の私の訂正はアサヒナカワトンボと断定するのではなく、その可能性が高いというところでとめておくことにします。

将来、DNAを扱っている研究者に標本を提供する機会があれば、その時が最終的な結論が得られるにちがいありません。

さて、混乱が整理されてきたカワトンボ属、いろいろ面白い問題も残されているようです。

「両種の境界部で出会った個体はどのようにふるまうのか(種を識別しているのか)?」

「そもそも伊豆個体群はなぜ第三のグループとして版図を拡げられたのか?」

皆さんも、仮説を立て、調べて見られてはいかがですか?

引用文献:
苅部治紀・守屋博文・林文男(‎2010):神奈川県を中心としたカワトンボ属の分布。Bull.Kanagawa prefect. Mus. (Nat.Sci.),(39):25-34.

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