07≪ 2017/08 ≫09
12345678910111213141516171819202122232425262728293031
2016-05-03 (Tue)
一連のシリーズ記事、今回はいよいよ、真田信幸(信之)が築いた天守閣の跡に迫ります。

最初に、前々回の記事から、「上野国沼田城絵図」の主要部分を再掲しておきます(下の写真)。
※写真はいずれもクリックで拡大します。

沼田城再探訪-5

この絵図では、西が上、北が右になっています。

前回記事では、この沼田城址公園で随一の石垣が残る西櫓台一帯の史跡を紹介しました。

その場所(本丸の西端)から北へ眼を転じると、公園内で一段低い平坦地へと続くゆるい下り坂とその先の風景が飛び込んできます(下の写真)。

沼田城再探訪-18
 (どの写真も、クリックで拡大します)

この坂を下ったところが、捨て郭(古城)の跡地で、私が小学生の頃はこの一段低い園地を「下公園」と呼びならわしていました。

下公園で更に北向きに歩を進めると、河岸段丘沼田台地の北端の崖の上に行き着きます。
かなり急な崖で、鉄柵がないと転落の危険大ありです。

その崖は遮る樹木がないため、沼田台地から見た古沼田湖の対岸、更にはその後方にそびえる三国山地の山々のパノラマを望むことができます(下の写真)。

沼田城再探訪-19

※このパノラマを背景に、映画「網走番外地」ロケが行われていて、私も遠巻きの野次馬にまじって固唾をのんで見守った記憶があります。反射板に照らされ、浅丘ルリ子の姿は一層まばゆく感じられました。このキャスティングから、高倉健主演の東映作品ではなく、その前の日活作品(外部リンク)だったことがわかりました。

「ぜんぜん天守閣、出てこないじゃん」ですって?
すいません、もう少々お付き合いを。

上の写真で中央に左右対称にどっしり構えるのが三峰山、その左に残雪の残る谷川岳、右に迦葉山が控えています。
谷川岳は霞んでいてよく写っていませんので、トリミングして無理やり画像処理したものが下の写真です。

沼田城再探訪-20

谷川岳は猫が腹ばいで休んでいる姿に例えられ、尖った耳の形のピークは手前がトマノ耳、その奥がオキノ耳と呼ばれています。
オキノ耳1977mが最高地点で、標高は2000mに届かないのですが、岩登りする場合の岸壁はアイガー北壁を連想するほどに登山者を寄せ付けず、そのため、遭難が頻発し、「魔の山谷川岳」と呼ばれていました。
ある時はザイルで宙釣りになったまま救助もままならず、そのザイルを自衛隊の射撃で切断し、二人の遺体を収容したというショッキングな出来事(外部リンク)もありました。
記憶のまま書き綴りましたが、Wikipediaにその要点が記されています(こちら)(外部リンク)。

パノラマの一部を示した上の写真で、三峰山の手前には、沼田河岸段丘を削った3大河川の一つ、薄根川沿いの水田地帯(減反政策後の今では畑や、勤労青少年ホーム、ゴミ処理場用地に転用されていますが)が拡がっています。
前景の針葉樹のシルエット越しに、その薄根川が見え隠れしています。

※私が小学生の頃は、学校にプールがなく、水泳授業では先生の引率で、この崖の横にある小道を通って薄根川の天然プール(淵状に若干深くなっていて、「茶碗淵」と呼ばれていました)に通ったものです。もちろん、夏休みには子供グループだけで、あるいは親兄弟といっしょに水浴び(水泳というよりもこちらのほうが語感近い)に行ったものです。

「天空の城下町(沼田)」シリーズの4回目記事で、すでにこのことに触れていました。
 「沼田台地上の市街地から、沼田公園(城址公園)の空堀の底の小道を降りて薄根川(少し川幅が広く、適度に深みもある、茶碗淵とよばれていた場所)に泳ぎにいくことが多かったのですが、水泳教室など、人数が多く中級者もまざる場合は長い下り坂を下って、戸鹿野のこの橋げたのある岩に出かけたものです。」

※残雪が北斜面に残るある日、近所の遊び仲間とこの崖の上で遊んでいると、若いカップル(当時はアベックという言葉が使われていた)が崖下への山道を下りていくのが見えました。ガキの分際で何か冷やかすような言葉を誰かが発したのでしょう、しばらくすると男性が振り向きその山道を駆け上がってきます。クモの子を散らすように退散したことを覚えています。

前置きが長すぎました。

いよいよ天守閣跡に北西方向から接近します。

下の写真で右中段に東屋が写っていますが、その向こうはくぼ地になっていて、くぼ地の対面はうず高い丘になっています。
この丘が天守閣跡です。

沼田城再探訪-21

上の写真で、左半分をよく見ると、猫の額のような底面を持つ窪地になっていて、その左右も向こう側も斜面になってこの窪地に落ち込んでいるのが分かります。

もちろん、右斜面は天守閣の土塁そのもので、城郭の破却が行われる以前は石垣がつまれていたはずです。

そうです、この窪地は本丸の堀の跡です(冒頭の沼田城絵図で天守閣北面でクランクしている部分の堀)。

この堀は上の写真の左端、外灯と桜の大木のある所のすぐ後で左に曲がり、沢となって台地の下へと続いています(絵図も参照)。
茶碗淵に下りていく小道はこの沢づたいにありました。

※この天守閣跡の北斜面は、私の小学生の頃の木登りや忍者ごっこ、ソリ遊びの格好の舞台でした。
忍者ごっこというのは、呪文を唱えてから斜面の小道を尻で滑る術を含んでいました。
この尻すべりの時に乾いた小道の砂埃が舞い上がり、一瞬忍者の姿が消えるのでした。

※また、向かい合う斜面にはビッシリと笹が生い茂り、その中に迷路を作ってよく遊んだものです。
ときには、エナメル線を張り巡らせて何か秘密基地が作られていた形跡もありました。

※毎日のように泥だらけ、砂だらけ、擦り傷を作って家に帰りましたが、家事担当の祖母は愚痴をこぼすこともなく汚れた服の選択をしてくれました。
手回しローラーの絞りきがついた電気洗濯機がはいったのは、そのような遊びをしなくなってからだったように思います。

「えーと、天守閣の話は?」
「はい、その当時はそこが天守閣跡だなんて知りませんでした。」

※天守閣跡の北西には私の小学生の頃、小さい池がありました。
ヤゴやオタマジャクシを捕まえて遊んだものです。
一度は、水辺の土の中に泡のようなものが埋もれているのを見たことがあります。
どうやらそれはシュレーゲルアオガエルの卵を包んでいたもののようです。

この池のあった場所は、今でも配管からの小滝とそれを引き立てる小さな岩が組まれていて、湿った場所になっていますが、残念ながら、これは公園としての整備であって、天守閣らしさを演出したものには見えませんでした。

この小滝を左に見ながら東屋との間のゆるい坂を上ると、鳥居と、そこから石段を数段登ったところに作られた社が見えてきます。
これは英霊殿で、太平洋戦争の戦死者を弔うためのものです。

※私の父母世代やその肉親たちが赤紙一枚で戦場に送りこまれた太平洋戦争を半ば肯定する施設としての英霊殿は、戦国武将が威光を顕すために築いた天守閣の跡地にはそぐわないというのが正直なところです。
とはいえ、世界大戦も戦国時代の戦も一兵卒から先に犠牲になるという点では共通しています。
今度の参議院選挙にからめて改憲が取りざたされていますが、戦後70年余、平和憲法のもとで戦争のない世界を目指してきたことで、一人の英霊も追加することなくここまで来られたことを忘れてはいけないでしょう。

それはさておき、このゆるい坂を上りつめて本丸の平面に立つと、天守閣跡が全貌を現します。
この南面から見た天守閣の様子が下の写真です。

沼田城再探訪-22

大きく写っている案内板が、この小さな丘が本丸跡であることを説明していなければ、通り過ぎてしまいそうな、存在感のない遺構です。

沼田真田氏5代藩主信澄の悪政により閉門改易され、この城の破却がなされたときに、江戸城と並び五層を誇った天守閣は目の敵にされ、徹底的に崩され、跡かたも残らないようにされたのではないでしょうか。

この無念さをいくばくかでも晴らしてくれそうなのが、最近この天守閣跡のすぐ南に建造された、真田信之(信幸)とその妻、小松姫が寄り添う石像です。
4月29日の記事からその写真を再掲します。

沼田城再探訪2
真田信之と小松姫の石像。沼田公園。筆者撮影。

4月29日の記事で:
 「石像の台座の上に所狭しと、5円や10円の硬貨が6枚ずつ密集して並べてあるのを発見しました。
この写真も拡大するとそれが見えます。
どうやら、六文銭にあやかった見学者・観光客の願掛けのようです。
ローマのトレビの泉の真田版といったところでしょうか。」

と書きましたが、せっかくですので、台座全体とその上の六枚銭の願掛けの写真を下に掲げます。
別角度からの写真をクロップしたものです。

沼田城再探訪-26

いつになく、長文になってしまいました。

次回記事では、本丸にまつわる遺構を取り上げ、沼田城址再探訪のツアー記を締めくくる予定です。

お楽しみに。


ブログランキング(↓):よろしければ両方ともクリックして応援してください。



にほんブログ村 科学ブログ 生物学・生物科学へ
にほんブログ村

| 歴史 | COM(0) | | TB(-) |
コメント







管理者にだけ表示を許可する