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2016-05-04 (Wed)
上野国沼田城の史跡探訪を取り上げたこのシリーズ記事で、前回までに、立派な石垣の西櫓台付近や石垣のかけらもない天守閣跡をたどってきました。

今回は、もう一カ所、真田時代の沼田城のしっかりした石垣が残された場所、本丸南東隅付近の遺構を訪ねます。

早速その場所の写真をご覧に入れましょう。
下の写真、中央から左の石垣がそれです。

沼田城再探訪-32
 (写真はクリックで拡大します)

西櫓台付近の石垣同様、表面が平坦化された巨大な石もいくつか見られ、石垣の高さも大人の背丈を優に超えます。
公園整備の関係で左のほうの石垣の上端部にコンクリート擁壁が継ぎ足されているのがちょっと艶消しですが、「この石垣から向こうが本丸だったのだな」との感慨を抱かせるに十分な拡がりがあります。

石垣の下側もコンクリートで護岸されていますが、この水面は堀が水を湛えているというよりも、方形の浅い人工池になっていて、私が小中学生の頃は、2,3羽のガチョウが放し飼いされていました。

石垣と向かい合わせに、小高い場所があり、そこには2,3の石碑などがありますが、沼田城絵図と照らし合わせると、そこにがあったことがわかります。

下の図は、沼田公園 真田時代沼田城図(重図)(外部リンク)を参考に、地理院地図の該当部分の上に沼田城の堀および櫓、天守閣の位置を重ねて私が描いたものです。

沼田城再探訪-31

この図で、濃い色で示した堀はその窪みが現在も残されているところを示します(筆者オリジナル)。
上の写真の石垣および人工池は、上の図では沼田公園の園の字のすぐ下の櫓とその右の堀に該当します。

ついでですが、前回記事で取り上げた天守閣およびそれに接する堀の位置も上の図でよくわかると思います。

※そうそう、この石垣と人工池と園路を挟んだ北側には円形の噴水池があり、昭和30年代前半には大勢の小学生や幼児がここで水浴びをしていました。すぐ横には消毒用の桝形の小プールがあり、私も利用した記憶があります。しかし、ある事件を境に遊泳禁止となり、中央に噴水が置かれ、ただの池に転用されました。事件というのは、沼田および周辺地域での赤痢の集団感染の発生です。そのとき、このプールも感染源の一つとして強く疑われたためのようです。プールのすぐ横にトイレはあったのですが、一部の心無い利用者がトイレを使わないで済ませているらしいという噂もささやかれていましたが、真相はどうなのでしょう。

このプールの北には沼田市の武道場が私の幼少時からあり、その後、そのすぐ北に沼田小学校講堂が、すぐ南に旧生方家住宅旧土岐邸洋館(いずれも外部リンク)が移築され、一大文化ゾーンになっています。

この生方家は私とたまたま同姓ですが、沼田の城下町で江戸時代初期から商家を営んできた家系で、元沼田町長の生方誠の生家だったものです。

土岐氏は、真田氏改易のあと、代官がしばらく治め、本多氏、黒田氏、と引き継がれた沼田藩に入封した大名で、版籍奉還まで120年余りこの地を治めたということです。

これら文化ゾーンの古建築は、いずれも沼田城にゆかりのある建物には違いありません。

さて、本丸のこの石垣の話にもどしましょう。

下の写真(とくに石垣の右半分)をご覧ください。

沼田城再探訪-27

最初の写真の石垣の一番右奥に写っていた、少し色の違う石の並びの部分を、別角度から写したものです。

「えーっ?、これって、新しく積んだ石垣じゃない?」とつっこみたくなるほど、見るからに石が新しく、また白っぽいではありませんか。
石垣の角度も微妙にゆるいですし。

しかし画面左の、以前からあった黒くて苔むした石垣の個々の石と、大きさや表面の形(カットするというよりも無造作に割ったときの表面)は共通しています。

すなわち、この新しく見える石垣は、真田氏改易に伴い城郭を破却した際に埋め立てられて以来、330年余り土の中で眠っていたものということになります。

私が小学生の時から見ていた、黒くて苔むした石垣(写真の左半分)はこの330年間の風雪による風化と苔の植生遷移がどれほどのものであるかを如実に物語っているといえます。

以下の写真は、この石垣跡の近くに建てられた案内板の解説文を撮影したものです。

各写真をクリックして解説をとくとご覧ください。

沼田城再探訪-28

ちなみに、上の写真の軒丸瓦は、前々回記事の中で紹介した私が小学生当時に御殿桜の石垣の下の笹藪の中から拾ったもの(下記に該当部分を引用)とそっくりです。

 「笹藪の中には屋根瓦の破片が落ちていることがあり、中でも円形で中央に三つ巴の模様のある破片を見つけたときは、宝物を見つけたような達成感を感じました。家に持ち帰り、親兄弟に見せたりしたあと、大切に保管した記憶があります。その後、同じような破片が当時の市公民館の廊下の展示ケースにもあったので、それが予想通り、沼田城のものだったことが確認できました。」

沼田城再探訪-29

この本丸堀発掘場所が沼田城絵図でどこにあたるかを示した部分を拡大したものが下の写真です。

沼田城再探訪-30

以上、途中で何度か話題が脱線しましたが、沼田城址のほぼ全貌を、私の体験を交えながら紹介したことになります。

まだいくつか紹介漏れの史跡がありますので、次回それらを取り上げたいと思います。

最後にこれまでの記事作成、とりわけ、城郭の平面図に関して、以下の記事を参考にさせていただいたことを明記しておきます。

     *  *  *  *  *  *  *

kubo_kenji:「沼田公園 真田時代沼田城図(重図) 」
http://photozou.jp/photo/show/1365719/69634474

武蔵の五遁、あっちへこっちへ:「沼田城(2) ~ 滝川儀太夫の男気」
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1940.html

酔いどれ親父のDataFiles:「日本の城 古城絵図・関東(1)」
http://book.geocities.jp/yabayousuke/kojyouezu/03203/sub03203.html

余湖くんのホームページ:「沼田城(群馬県沼田市倉内)」
http://www65.tok2.com/home2/yogokun/numata.htm

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