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2016-05-05 (Thu)
上野国沼田城の史跡探訪を取り上げたこのシリーズ記事もいよいよ大詰め。

今回は、天守閣造営など、この城郭を整備した真田沼田藩の初代藩主、真田信之(信幸)とは直接関係のない史跡を取り上げます。

前々回の記事で、沼田公園のメインな園地(本丸跡)の西端から、一段低い平坦地(下公園)へとご案内し、三峰山や谷川岳のパノラマが広がる崖の上でしばし雑談を繰り広げましたが、この下公園は古地図で「古城」あるいは「捨郭」となっている場所で、真田信之が藩主となる前の城郭がここにあったと言われています(参考サイト1)。

この古城跡の西端(やはり、切り立った崖の上になっています)近くに歩を進めると、下の写真のように木柵に囲まれた大石が目にはいります。

沼田城再探訪-35
 (写真はクリックで拡大します)

知る人ぞ知る、平八石です。

沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代城主である顕泰の側室の子である沼田平八郎景義が謀殺され、それを仕組んだ真田昌幸が実検したあとその首を置いた石といわれるものです。

※私が小学生の頃それを見て、その石に苔がむしているのはその血を肥しにしているのかなどと思ったものです。

義経を思わせる風雲児、平八郎は闘えば昌幸をもたじろがせるだけの力を持ちながら、伯父の金子美濃守にだまされ、殺害されたということで、いつしか沼田町民の判官贔屓をかっさらう伝説的な存在になったようです。

詳しくは現地の案内板の説明文(下の写真)をご覧ください。

沼田城再探訪-36

平八石のすぐ近くに、同じような風合いの石で作られた句碑があるのですが、それについては後日、別シリーズの中で取り上げたいと思います。

さて、この捨郭の西端からは利根川を挟んだ対岸にどっしりと構えている子持山を主景としたパノラマを楽しむことができます(下の写真)。

沼田城再探訪-37

利根川は、片品川、薄根川とともに沼田河岸段丘を削り上げた三大河川の一つです。
赤城・子持の両火山の溶岩がこの川をせき止めてできたのが古沼田湖で、その天然のダム堤が侵食や崩壊で下がるたびに段丘が削られて日本有数の段丘地形が出来上がったと考えられます(以前の記事参照)。

捨郭のあった台地面を時計回り方向に移動すると、赤城山、子持山に続いて沼田盆地を縁取りする、唐沢山、大峰山、吾妻耶山がそれぞれ個性的な山容を見せます。

そして、前々回の記事で写真とともに紹介した、谷川岳、三峰山、迦葉山が続きます。

更に東回りに眼を転じると、前方に高王山と戸神山、その背後に聳える標高2158mの武尊山と対面することになります(下の写真)。

沼田城再探訪-38

戸神山(上の写真、手前右)を、その形から、私たちは「三角山」と呼んでいました。

武尊山(上の写真の後方)は前方の山に半分隠れつつも、奥ゆかしくよこたわる、雪化粧の似合う山で、私も子供のころ憧れていました。

沼田平八郎や真田信幸も城からこの山を望み、武運を祈ったのかもしれません。

撮影当日は霞がかかっていて、はっきり写らなかったのが残念でした。
部分拡大し、無理やり画像処理した武尊山が下の写真です。

沼田城再探訪-39

武尊山の山頂はどれだと思いますか?

この山は、標高2000~2160mの、ほぼ同じ高さのピークが6個も連なっていて、山頂の特定は容易ではありません。

最遠景の山の右半分は残雪が少なく、薄い紺色に見えます。この部分を仰向けに寝ている人の顔に例えると、一番右のオデコの部分は「天狗岩」、鼻の先は「前武尊」、唇は「剣ケ峰」、襟(第一ボタン)の部分が無名ピーク(2103m)、第二ボタンの位置のトンガリが副ピーク、第三ボタンの位置のトンガリが主ピーク(2158m)となります。

更に左隣のピークに行くと、薄根川支流の桜川源流部(川場スキー場となっている)や発知川支流の鹿俣沢の源流部を囲う尾根筋へとつながります。

上の写真で戸神山(俗称、三角山)の背後にある紺色の濃い尾根で、スキーリフト沿いに露出した白い雪の筋が登りつめた頂点のうち左のほうの、その背景にかすかに白いピークを見せているのが武尊山頂になります。

しかし、ちょっとこの写真でそれを見つけ出すのは至難の業のようです。
ネット検索すれば、くっきりと写ったこの山の写真は他にいくらでもありますので、そちらで確かめられるとよろしいかと思います。

さて、武尊山の山名は、日本武尊の東征に由来しているとされ、その石像が1850年に前方のピークである、前武尊に建立されたといわれています。

谷川岳も武尊山も一度登ってみたいと思っていましたが、高校卒業以来地元を離れていたため果たせていません。
武尊山よりも70m高い至仏山には、高校生の時に登っていますので、まあよしとしましょう。

捨郭跡(古城跡、俗称下公園)から元の坂を戻って本丸跡のメイン園地に向かうと、坂の途中、左手に、周囲を圧するような石碑があります(下の写真)。

沼田城再探訪-33

五大尊講
土岐沼田藩の初代藩主、土岐頼稔が城内に不動院という寺を建てたが、維新変革により廃寺となったことから、沼田五大尊講として祀られた等々のいきさつが、台座に刻まれていました(下の写真)。

沼田城再探訪-34

私のこの沼田城址再探訪の際、同行した、私よりも年長の沼田出身者がこの石碑を見て「こんなのここにあった?」とつぶやきました。
そういえば私も記憶がないような。
そこでこの石碑の横に建てられた追加の小さな石碑を見ると、以下のようなことが書いてありました。
「馬喰町の二十三夜勢至同境内に昭和二八年に建立されたものをにここ沼田公園内に移設する。昭和四一年」

昭和四一年といえば、私が高校を卒業した年ですから、見た記憶がないのも当然です。
でも、実家に帰省した際に甥や姪を連れてこの公園で遊ばせたときに、前を通りかかったことはあったはずです。

というわけで、この石碑は、沼田城址の中ではかなり地味な存在の史跡でした。

土岐頼稔と不動尊のかかわり、頼稔の沼田における施政が発掘され、沼田市民や歴史好きの人々になじまれるようになれば、この石碑も輝いてくるかもしれません。

これで沼田公園内での私の真田氏ゆかりの歴史散歩はひととおり終わりとなりました。

次回以降は、公園から離れた場所での沼田真田巡りが続きます。

 *  *  *  *  *  

参考サイト:

(1)武蔵の五遁、あっちへこっちへ:「沼田城(3) ~ 豊臣秀吉の裁定」
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1941.html


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