2023-02-04 (Sat)
今回は諏訪市の高島城の外観、天守閣からの展望や展示資料の一部をご紹介し、その歴史について調べたことをまとめておきます。
目次:
・天守閣
・資料室展示品に残る江戸時代の薫り
・天守閣から見える風景
・諏訪の浮城
・冠木門の由来
・高島藩の歴史
1)高島藩の藩歴
2)高島藩の人物
・引用文献:
・関連記事へのリンク:
天守閣
写真1は、冠木橋のたもとから撮った高島城本丸の北西端で、内濠の水面に天守閣が影を落としています。
写真1 高島城本丸の北西端。中央は天守閣 (画像はクリックで拡大します)
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の家臣・日根野高吉によって築かれた3層の天守閣(写真2)は、廃藩置県により明治8年(1875年)に破却されるまでは藩政安泰のシンボルとして聳えていました。
高島城の天守閣は破却後、長い間、石垣(写真3)が残されただけでしたが、地元の熱意が結集したことにより昭和45年(1970年)に3層5階鉄筋コンクリート建築で復元されました(写真4)。
天守閣の内部は資料館と展望台になっていて、写真2,3,5~7はその資料館の展示品の一部(いずれも撮影OK)です。
写真4 高島城天守閣
再建された天守閣は、文部省文化財専門委員(当時)である大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものとされます(出典:現地案内板)。
天守閣の1層目の外壁には四角形や三角形の矢狭間・鉄砲狭間が確認できますが、これは藩の時代に修理個所を記入して出願したときの扣図【こうず;控えの絵図】にあったことなどから、復原の意味で加えられたとされます(大岡實建築研究所、2023閲覧)。
それとは別に、素人目には破却前には1つだった最上階のアーチ窓が、再建されたものには3つあるのは何故だろう(展望目当ての見学者への配慮?)とも思いましたが、これも旧い絵図には3つあったのかもしれません。
天守閣再建の設計図の一部が大岡實建築研究所(2023閲覧)のウェブサイトで見ることができます(こちら)。
資料室展示品に残る江戸時代の薫り
写真5は、展示品のうちの桶側二枚胴具足です。
この胴具足は城主が用いたものではなく、高島藩家老三之丸千野家の家臣を務めた藤森家から寄贈されたもので「金素輪(きんすわ)」【金色の丸印】という合印【あいじるし】がつけられています(出典:説明板)。
金素輪は高島藩の具足につけられるものであり、高島藩にゆかりがあると指摘できるとみられています(出典:説明板)。
ただし、鎧櫃の底に「慶応紀元春造 土浦藩【現、茨城県】原田氏」と書かれているので、【正確な帰属は】検討課題として残されたとのことです(出典:説明板)。
写真6,7は、展示品の櫓時計です。
写真6 櫓時計(高島城展示品)
江戸時代中期のもので本田親蔵氏が寄贈したものです(説明板より)。
これも城主が使用していたとの説明はありませんが、かなり正確に時を刻むことができる機器ですので城内のしかるべきところに置かれて役割を果たしていたのではないでしょうか。
子どもの背丈程度の高さですが、どっしりと構えた格子の中に天秤の分銅のような錘が見えています。
これを人の手で吊り上げておいて、重力で下がっていく力で歯車をまわし、天辺のベルの下にある振り子のようなもの(写真7参照)でテンポを維持しながら、(近現代の時計のような針ではなく)ダーツの的のように見える文字盤(写真7参照)をゆっくり回転させることで時刻を知る仕組みのようです。
写真7 櫓時計(高島城展示物)部分拡大
写真7からは、その文字盤が1から12の数字ではなく、干支(子丑寅卯辰巳・・)になっていることがわかります。
そして、この配列ですと、文字盤は反時計回りに回るようになっていると判断できます。
展示品をゆっくり見ながら上層階に進むと、最上階(といっても3層5階の、ですが)に到着し(写真8)、窓やドア越しに城下町や周囲の山野の風景が広がります。
写真8 高島城5階(最上階)内部
室内の中央にあるのは城と城下町の一部のジオラマです。
天守閣から見える風景
天守閣から北西方向を見渡すと住宅地、ビルの向こうに諏訪湖とその後方の山岳地帯が広がっています(写真9)。
写真9 高島城から北西方向(諏訪湖方面)を望む
写真9の左端の低山地のはるか後方の山(写真10中央)はGoogleMapで調べたところ鉢盛山(標高2,447m)とわかりました。
写真10 高島城から見える鉢盛山
写真9の中央の横幅最大のビルは諏訪赤十字病院ですが、その向かって左肩付近を拡大し、さらに明度を下げてコントラストを強調すると鋸の歯のような稜線をもつ穂高岳(穂高連山)が浮かび上がりました(写真11)。
写真11 高島城から見える穂高岳(コントラスト強調)
それぞれのピークの同定に手間取り、最後は 安曇野 大好き!(2023閲覧)と Hearts of a boy(2023閲覧)を参照することでゴールインできました。
写真12は南東方向の眺めです。
よく晴れていれば中央奥に富士山が見える画角なのですが、あいにくの空模様です。
写真12 高島城から南東方面(富士山は雲隠れ)
写真12で天守閣の足もとを見下ろすと緑豊かな園地になっていますが、これは本丸の跡地が高島公園として整備されたことによります。
写真13は写真1にも写っていた高島城の内濠を上から撮ったものです。
写真13 高島城の内濠(天守閣からの眺め)
写真13の中央の橋は冠木橋で、本丸の冠木門へと導く正面入り口の役割を果たしています(suwakanko.jp 2023閲覧)。
諏訪の浮城
さて、日根野織部正高吉によって高島城が築城された場所である高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っているそうです(諏訪市役所、2023閲覧)。
高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれており、完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ(拝借画像1)、「諏訪の浮城」とも呼ばれたそうです(諏訪市役所、2023閲覧)。
拝借画像1 葛飾北斎 景勝奇覧 信州諏訪湖(1834年制作)Katsushika Hokusai, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:View_of_lake_Suwa.jpg
この諏訪の浮城も、その周りが干拓されて陸地化し、写真9に見るように諏訪湖から600m以上距離を置いた通常の平城に化しています。
写真14 は、諏訪忠元氏寄贈の御枕屏風(おまくらびょうぶ)(複製)2点のうちの1点(諏訪湖と高島城が描かれている方)ですが、湖に接しているのは城の北西側だけとなり拝借画像1に見る浮城状態からは脱していて、すでに干拓が始まっていてたことが伺えます。
suwakanko.jp(2023閲覧)によれば、御枕屏風は高島藩三代藩主 諏訪忠晴が、寛文4年(1664年)画工に命じて作らせたとされる物で、座右に置いて執務を執ったので「御枕屏風」と名付けられたのだそうです。
写真14 諏訪忠元氏寄贈の「御枕屏風」(高島城展示物)
冠木門の由来
天守閣(資料室)の見学を終えて旧本丸敷地(高島公園)内の園路を歩くと、立派な城門がありました(写真15)。
冠木門と呼ばれていますが、現存の門の形は「冠木門」ではありません。
写真15 高島城冠木門跡に建てられた楼門
この門の説明版には「冠木門【かぶきもん】とは、左右の柱の情うに一本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な門のことを言うが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門とよばれる屋根付きの門であったことがわかる。おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。」と書いてありました。
大岡實建築研究所(2023閲覧)によれば、「諏訪市教育委員会刊行の『諏訪高島城―諏訪の神氏系図―』には、『冠木門は古い写真がないので【復元にあたっては】大岡【実】博士の考案によった。もと一重の棟門あるいは薬医門【2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門】【で】あったと思われるが楼門【二階造の門】に設計され』たとある」とのことです【太括弧内はブログ筆者注記】。
高島藩の歴史
高島藩には大きく諏訪家と日根野家の二つの家系が交代するよ関わっていたことが、これまでの建造物や展示物の説明からうかがえます。
そこで、高島藩の藩歴や藩主の人物像についてWikipediaで調べて以下にまとめてみました。
1)高島藩の藩歴
Wikipedia,(2023閲覧:諏訪藩)によれば、信濃国諏訪郡周辺を領有した藩である諏訪藩(すわはん)〔高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる〕には以下のような藩歴があったとされます。
・戦国時代、諏訪の地は諏訪神社の大祝(おおほうり)である諏訪氏の支配下にあったが、1542年に武田信玄の侵攻を受けて諏訪頼重は切腹した。
・武田氏支配下の中で神官として生き残った諏訪頼忠(頼重の従兄弟)は、1582年の武田勝頼の織田信長・徳川家康の連合軍による滅亡、本能寺の変を受けての動乱の中で諏訪家を再興した。
・頼忠はその後、信濃に侵攻してきた家康と和睦しその家臣となり、1590年の徳川家が関東に移封にともない家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられた。
・代わって日根野高吉が諏訪家転出の同年に高島に入封した。
・そして高吉の子・吉明が家督を継いだが、1601年に下野壬生藩に移封(一説には減封)された。
・同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が旧領・高島に復帰した。
・武田氏支配下の中で神官として生き残った諏訪頼忠(頼重の従兄弟)は、1582年の武田勝頼の織田信長・徳川家康の連合軍による滅亡、本能寺の変を受けての動乱の中で諏訪家を再興した。
・頼忠はその後、信濃に侵攻してきた家康と和睦しその家臣となり、1590年の徳川家が関東に移封にともない家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられた。
・代わって日根野高吉が諏訪家転出の同年に高島に入封した。
・そして高吉の子・吉明が家督を継いだが、1601年に下野壬生藩に移封(一説には減封)された。
・同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が旧領・高島に復帰した。
・以後、諏訪藩(高島藩)は諏訪家の支配のもとで明治時代に至った。
・明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に加わり、甲州勝沼の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦した。
・明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となった
・明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に加わり、甲州勝沼の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦した。
・明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となった
2)高島藩の人物
日根野 高吉(Wikipedia,2023閲覧:日根野高吉):
・日根野 高吉(ひねの たかよし)は、美濃斎藤氏、織田信長・信孝、羽柴秀吉に順に仕えた。
・1590年の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、秀吉により信濃高島に3万8000石を与えられ、高島城を7年かけて築城した。
・1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたが、本戦直前の6月26日に急死し、跡を嫡男の吉明が継いだ。
・1590年の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、秀吉により信濃高島に3万8000石を与えられ、高島城を7年かけて築城した。
・1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたが、本戦直前の6月26日に急死し、跡を嫡男の吉明が継いだ。
日根野吉明(Wikipedia,2023閲覧:日根野吉明):
・日根野吉明(ひねの よしあき)は関ヶ原の戦いでは父の遺言に従い東軍に与し、会津征伐でも徳川秀忠軍に従軍したが、その後、西軍方の信濃上田城主真田昌幸の備えに回った。
・1601年に家康に初目見得し吉明を称したが。
・1602年に、祖父の弘就(ひろなり)が1600年の関ヶ原の戦いで東軍西軍どちらに与すか表立っては明らかにしなかったことから、戦後に減封処分を受けた(これのみ、Wikipedia,2023閲覧:日根野弘就)ことや、吉明が若年という理由から、家康により下野壬生1万2000石(一説には1万5000石)に減封された。
・1614年からの大坂の陣では徳川方に従い功を挙げた。その後、日光東照宮の造営副奉行に命じられるなど江戸幕府のために尽力したことから豊後府内2万石に加増移封された。
・1601年に家康に初目見得し吉明を称したが。
・1602年に、祖父の弘就(ひろなり)が1600年の関ヶ原の戦いで東軍西軍どちらに与すか表立っては明らかにしなかったことから、戦後に減封処分を受けた(これのみ、Wikipedia,2023閲覧:日根野弘就)ことや、吉明が若年という理由から、家康により下野壬生1万2000石(一説には1万5000石)に減封された。
・1614年からの大坂の陣では徳川方に従い功を挙げた。その後、日光東照宮の造営副奉行に命じられるなど江戸幕府のために尽力したことから豊後府内2万石に加増移封された。
諏訪頼水(Wikipedia,2023閲覧:諏訪頼水):
・諏訪頼水は1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い信濃国や上野国の守備に就きいた。
・第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たすなどの功績により諏訪氏伝来の地である信濃国高島2万7,000石へと復帰した。
・慶長19年(1614年)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。
・頼水は政治手腕に優れ、全てを指示し、前領主の「七公三民」と高い税率のせいで逃散していた百姓を呼び戻して、新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力した。
・第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たすなどの功績により諏訪氏伝来の地である信濃国高島2万7,000石へと復帰した。
・慶長19年(1614年)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。
・頼水は政治手腕に優れ、全てを指示し、前領主の「七公三民」と高い税率のせいで逃散していた百姓を呼び戻して、新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力した。
引用文献:
安曇野 大好き!(2023閲覧)諏訪湖の西山から槍・穂高連峰を眺む
http://jack0904.blog.fc2.com/blog-entry-1678.html
Hearts of a boy(2023閲覧)諏訪湖からの槍・穂高連峰(カシミール3Dで山名特定)
http://heartsofaboy.blog8.fc2.com/blog-entry-572.html
大岡實建築研究所(2023閲覧)高島城(長野県諏訪市)
http://www.ohoka-inst.com/takashimajyo.html
suwakanko.jp(2023閲覧)諏訪高島城
https://www.suwakanko.jp/takashimajo/index.html
諏訪市役所(2023閲覧)諏訪高島城
https://www.city.suwa.lg.jp/site/enjoy/4446.html
Wikipedia,2023閲覧:日根野弘就
https://ja.wikipedia.org/wiki/日根野弘就
Wikipedia,(2023閲覧)日根野高吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/日根野高吉
Wikipedia,(2023閲覧)日根野吉明
https://ja.wikipedia.org/wiki/日根野吉明
Wikipedia,(2023閲覧)諏訪藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/諏訪藩
Wikipedia,(2023閲覧)諏訪頼水
https://ja.wikipedia.org/wiki/諏訪頼水
著者プロフィール:
生方秀紀(うぶかた ひでのり):北海道教育大学名誉教授、トンボ自然史研究所代表、理学博士(北海道大学);専門は昆虫生態学、自然環境教育;著書:『トンボの繁殖システムと社会構造』(共著)東海大学出版会;『坂上昭一の昆虫比較社会学』(共編著)海游舎、『ESDをつくる―地域でひらく未来への教育』(共編著)ミネルヴァ書房、『環境教育』(共編著)教育出版
関連記事へのリンク:
※シリーズ記事「信州の秋を彩るトンボ達」の記事一覧はこちらです。
※「長野県」関連記事一覧はこちらです。
※「諏訪」関連記事一覧はこちらです。
※「建造物」関連記事一覧はこちらです。
※「歴史」関連記事一覧はこちらです。
※「日本史」関連記事一覧はこちらです。
※「城」関連記事一覧はこちらです。
※「建築」関連記事一覧はこちらです。
※「山の名」関連記事一覧はこちらです。
★当ブログが参加しているブログランキングです。よろしければ、それぞれをクリックして応援してください。
↓ ↓ ↓
『坂上昭一の 昆虫比較社会学』が出版されました(こちらをクリック!)
ハッシュタグ:
#高島城 #諏訪の浮城 #高島藩の歴史 #諏訪藩の人物 #諏訪高島城 #日根野弘就 #日根野高吉 #日根野吉明 #諏訪藩 #諏訪氏 #諏訪頼重 #諏訪頼忠 #諏訪頼水 #歴史 #日本史 #戦国武将 #武田信玄 #織田信長 #豊臣秀吉 #徳川家康 #関ヶ原の戦い #江戸幕府 #諏訪大社 #諏訪神社 #城門 #江戸時代 #明治維新 #廃藩置県 #諏訪市 #諏訪湖 #諏訪湖観光 #諏訪市の観光 #長野県の観光 #信州の観光 #諏訪湖から見える山 #鉢盛山 #北アルプス #日本アルプス #穂高岳 #穂高連山 #富士山 #葛飾北斎 #浮世絵 #櫓時計 #鎧兜 #博士ちゃん #歴史博士ちゃん #お城博士ちゃん
コメント